すべての議論は感情論である

感情論というのは普通、否定的な意味で使われる。

憂鬱だ
増田さんへ。私は久しぶりに激怒しました。 - iGirl
- 中略 -
増田さんへ。久しぶりにグレーターみのもんたが現れました - ls@usada’s Backyard

こうした感情的なコミュニケーションは議論とはいわないし、いえない。それは基本的にお互いの感情をぶつけ合うだけのものだからだ。けれども、人は処世術として感情を理屈でデコレーションして、自分の感情の正当性や妥当性を同時に担保しようとする。これは多かれ少なかれ誰もがやっていることだろう。リンク先の事例では、ああ、あの人はああいうことに怒る人なのか、という以上に有意義な情報はない。理屈などはあくまでも飾りである。そして、これに反感を持った人はさらなる理屈をもって仮想敵の非道を証明しようとする。問題は、理屈を駆使する目的である。

「オレ、やっぱダメなのかな」「弱虫!バカバカバカ!」「弱虫にバカとかいってヒドイ!」…以下略、という感情のぶつけ合いだけなら娯楽といってもいいかもしれない。けれども、そこに理屈をどんどん盛り付けて互いに傷付け合ったり人格を否定し合ったりするのは、もう娯楽から逸脱しているのではないかと思う。この手の論戦の目的はあまりに個人的だ。社会性が著しく薄い。そもそも議論でも何でもない話に議論風の味付けをして、嫌いな相手の人格の劣悪たるを証明しようとしたり、自分の愛すべき人格を顕示したりしようとするなど、行きすぎた承認欲求だろうと思う。

この場合、問題なのは「議論の根本に感情があること」ではない。ただの感情の表明に議論の手法を援用して、「自らの承認欲求を満たそうとする」からイケナイのである。感情に端を発する議論がすべてダメなのかというとそんなことはない。むしろ、感情の上に立つ議論にこそ意味があるとぼくは思う。おそらく、感情を抜きにした議論は、ゲーム以上の意味を持たない。たとえば、「殺人の是非」という議題で「一切の殺人は非」と「場合によっては是」の両派に分かれるとき、感情を抜きにするならどちらについても議論は可能だろう。いわゆるディベートというやつである。

本当の議論には、だから、根本に感情が欠かせない。Googleストリートビューは「気持ち悪い」か「素晴らしい」か「なんとも思わない」か。まずは、感情が先にある。議論するなら、それが真摯な姿勢というものである。その上で、自分の感情の行く先を「論理的に」考える。それぞれの論陣が、それぞれの感情に発した選択によって何が得られ、何が失われるのかを考える。社会にとっての功罪を訴える。社会とはつまり、「私」であり「あなた」である。「私」の主張を支持することは「あなた」にとってこんなメリットがありますよ。そうやって相手の心変わりを促すのである。

結局のところ、議論というのも共感のための手段のひとつにすぎない。

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