「女は共感脳」に共感し合う男たちを見て思うこと

女性脳、男性脳なんてものが本当にあるのかどうか、ぼくは知らないし興味もない。たとえば職場の愚痴をこぼす共働きの妻に正論で答える夫、というようなシチュエーションで主に「男性脳」を否定的な文脈で扱うのがイマドキのように思う。いわく、彼女は業務改善の相談をしているわけではないのだから、誰でも思いつくような解決策を上から目線で講釈したり、あまつさえそりゃあ君にも非があるねなどと冷静な意見をいったりするのは間違っている。それは大変だったね、君の気持はよくわかる、そりゃあクライアントが酷いね…とまあ、ひと通りの共感を示しつつ膿を吐き出させてあげるのが正解だろう、というわけである。

ぼくとしても、この結論自体に異論はない。

愚痴に正論とは野暮の極みである。定番の「あるあるネタ」といってもいい。ただ、そこに「男女の脳の違いによるすれ違いだ」という説明が付くことには大いに違和感がある。女性は共感脳、男性は解決脳、といった類のそれである。上の一件だけを見れば、「あっている」気がするかもしれない。「あっている」事例だけを取り上げているのだから当たり前である。たとえば、モテないことをうじうじ悩んでいる恋愛下手の男が自ら不遇の人生をグチグチ語りだしたとしよう。はたして、気の置けない関係の女が延々それを聞かされて、上から目線で解決策を示したり、そりゃあ自己責任だわと客観的な意見をいったりしないものだろうか。

多分これは話し手と聞き手のミスマッチに起因するすれ違いであって、脳の性差みたいな胡乱な話とはまるで関係がない。件の妻は、同じ職場で同じような立場にある人間と同じような話をすれば、男女を問わず多くの共感と同情を勝ち取ることができただろう。件の男だって、恋愛に悩み色々とこじらせ続けている人間が相手なら、男女を問わず多くの共感と同情を勝ち取ることができたはずだ。もちろん、盛大に愚痴をこぼすような精神状態の人間に冷静に相手を選べというのは酷な話だし、そもそもそのとき話している相手にこそ共感や同情を示して欲しかったりするものだろうから、度量を問われるのはやはり聞き手である。

愚痴に限らず、男女を問わず、他愛ない日常会話に人が求めるものは「共感」やそれに類する何かでしかないように思う。あえて身も蓋もない言葉を使うなら「承認」といってもいい。「解決脳」が顔を出す理由として有力なのは、その話題をさっさと切り上げたいか、その解決策に感心されたいかのどちらかだろう。前者は「承認を与える余裕がない」、後者は「承認を求めてきた相手に逆に承認を求める」という典型的なディスコミュニケーション事例ともいえる。もしも仕事の話題で男が解決策を提示しがちなのだとしたら、それは「仕事ができると思われることで承認欲求が満たされるタイプ」の男が多いということかもしれない。

「女は共感脳、男は解決脳」なんて与太話に「共感」して、ステレオタイプな女性論に花を咲かせる男は少なくない。「不毛を嫌う合理的で有能なリアリスト」という評価が承認となるようなタイプの男たちが互いに「共感」し合って「不毛で不合理な会話を楽しんでいる」のだから面白い。不毛な会話が好きなのは女性だけではないのである。結局のところ、会話というのはお互いの反応を通じて「承認」を確認し合う行為なのではないかと思う。どんな場面で、どんな反応を求めるかは時と場合によるだろう。「共感」が承認に繋がるケースもあれば、「関心」や「敬意」みたいなものが承認に繋がるケースもある。ここが難しいところだ。

そして、互いに承認のギブ・アンド・テイクを忘れたとき、すれ違いは起こるのだろう。

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