「カワイイ」の功罪とコミュニケーションの強度

「カワイイ」の濫用についていまさらどうこういうのは無粋かもしれない。

男でも女でも「女同士の『カワイイー』は、本当は可愛くないのに言ってる」っていうけど、

リンク先に書かれている、嘘っていうヤツが失礼、という主張はその通りだと思う。そもそも、A子が髪を切ったB美に「カワイイ」というとき、A子とB美の間には髪型の変化についての話題である、という共通了解がある。そこでCが「嘘」だという。「B美は可愛くない。ブスだ」という趣旨での発言なら、それはそもそも文脈を解していないだけのことである。一方、「B美の今の髪型は別に可愛くない」という意味でいったなら、会話としては成り立っている。ただ、どちらにしても失礼ではある。いずれ、「カワイイ」という言葉はあらゆる意味を含んだ褒め言葉として汎化されている。

ただし、Cの「嘘」発言にはもうひとつの可能性がある。CがB美をではなく、A子とB美の関係性を評価して発言している場合である。普段の態度からして、A子はB美を下に見ているとか、A子はB美より自分が可愛いと思っているとか、そういう関係性の評価が「嘘」発言に繋がることはあると思う。売らんかなの軽薄なショップ店員が、試着室からでてきた客をとにかく「カワイイ」といって褒めるような場合も、こうした関係性の評価が「嘘」の根拠となる。たぶん、「女同士の~」という偏見の中には「女って友だち褒めてても自分の方がカワイイって思ってるんでしょ」という含意がある。

要するに、「女同士の~」というのは見たままの属性批判ではないかと思う。ということは、Cが失礼なのは実はB美に対してではなく、A子、B美を含む全女性に対してである。ただ、「カワイイ」という言葉の無批判な濫用が、こうした関係性の軽薄さをより一層印象付けている可能性は否定できない。「オマエら、何でもかんでもカワイイカワイイって、ホントに思ってんのかよ」という気持ちは、正直いってぼくにもある。ここまで「カワイイ」が万能化してしまった以上、社交辞令の「カワイイ」だって世に溢れているはずだ。具体性の薄さが本気と社交辞令の境界を曖昧にしてもいる。

共感のための言葉は、具体性を持たせない方がいい場合も多い。A子が新しい服を着てきたB美に「カワイイ」という。気に入って買った服の良さに共感してもらえることはB美にとって嬉しいことだろう。そこで、A子が「襟元のフリルはもうちょっと抑え気味でもよかったかもだけど、チョコレート色がデニムに合ってて超カワイイ!」とか具体的にいったらどうか。B美はその服の襟元のフリルとウエストのラインが気に入って買ったのだけれど、実は一番欲しかった白が売り切れていて仕方なく茶色を買ったのかもしれない。褒められて悪い気はしないだろうけれど、共感のレベルは下がる。

A子は本当に良いと思ったから、自分の良いと思う気持ちを具体的に表明した。B美は、A子とはセンスが違うなぁ、と思った。「その服、超カワイイ!」「でしょでしょ、昨日ひとめ惚れして買っちゃったんだぁ」…くらいの会話にしておいた方が共感値を最大化できる。これは、お互いに「理解し合う」よりも「共感し合う」ことに重点を置いたコミュニケーションにおいては、とても有用な戦略である。同じものを好いと思っても、その理由について言葉を重ねれば重ねるほど、互いの齟齬が明らかになっていく。ならば、好いと思った事実だけ共有できればいいという考え方は合理的だ。

ただ、簡単に築ける共感は簡単に失われ得る。「カワイイ」に強度は期待できない。

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lylycoさん超クール!

> ekiさん
超ウレシイ!

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