気持ち悪くないインターネットはどこですか?

これは、ネットとリアルに越えられない壁を感じている人なんだろうか。

なんか最近はてな気持ちわりぃよ - 愚者の愚痴

リンク先のma_zu氏が気持ち悪がっているもの。それはたぶん、リアルでは普通に観測される類のクネクネだろうと思う。そして、実際に当人も「外でやれ、外で。」と書いている。つまり、氏の中ではリアルとネットは別、特にはてなは別という感覚、或いは、願望が強いんだろう。リアルでやるようなことをはてなでやるな、と。特に異性関係。もしかすると、「なんか最近はてなけまらしぃよ」というよくある嫉妬なのかもしれない。けれども、それじゃあ話としてツマラナイ。けまらしくなんかない、本当に気持ちが悪いんだ、という方が色々と根が深い気がするのである。

そもそもインターネットというのはリアルの一部である。受け取られる情報の性質が異なるだけで、別に並行世界が存在しているわけではない。例えば、実際会って話すのと、電話で話すのと、メッセンジャーで話すのでは、やり取りできる情報に違いがある。コミュニケーション手段としてどれが優れているとかいう話ではない。メッセンジャーでは伝わらないものが対面なら伝わるということはあろう。そしてもちろん逆もある。要するに、それぞれの性質に合わせたコミュニケーションが生まれるというだけのことである。上手くいかない事例もそれぞれにあって当たり前だ。

そんな前提に立つ時、「友達とやれ。なんでわざわざはてなで仲良しごっこしてるんだ、気ん持ち悪い。」という言葉がひっかかってくる。たとえば、学生時代にたまたま同じクラスになった人と仲良くなる。これは友達か。友達だとしたら、友達になる前と後で一番変わったことはなんだろう。それは、相手に関する情報量なんじゃないかと思う。お互いの間を流通した情報量の増大と共に、いくらかの共感や興味が生じた結果その人を友達だと感じるようになる。おおよそ、そんなところだろう。そして、圧倒的に増大した情報といえば、外見や臭いや触り心地よりも言葉だろう。

人間関係に情報の欠落はつきものだ。というより、完全な理解というものがそもそもあり得ない。確かに、実際に会うことの圧倒的な情報量は群を抜いている。そこには、外見に止まらずちょっとした仕草や話し方や声のトーンや感情の表し方などなど、インターネットやなんかではなかなか伝わらない情報がてんこ盛りに盛られている。場合によっては、そうした情報が交わされる言葉以上に強い印象を残すかもしれない。けれども、コミュニケーションの入り口として、五感に訴える情報が文字に変えられる情報よりも重視されなければならない合理的な理由はないように思う。

そして、「フィールドの外に出る勇気は無いけど、出会いは欲しいからフィールドの中に入ってきた異性にターゲット絞ってキャッキャしますってのは、なんかね。」というのは、ma_zu氏の境界意識の強さを端的に示している。はてなとはてな以外というフィールドで人は生きているわけではない。たまたまはてなというフィールドにもコミットしているだけだ。当然、はてなの外でも生きている。このレトリックが正当性を持つなら、たまたま同じ職場になった異性にターゲット絞るのも、たまたま同じ国に生まれた異性にターゲット絞るのも、「なんかね」ということになる。

リアル、ネット、はてな…そんな境界線は、あると思っている人の中にしかないのである。

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すみませんがまた愚痴のような自分の話を書きます。

ローカルアイドル作ってキャッキャ言ってるようなのはどこまでも遊戯として自覚されているはずなので、寒くはあるけどキモくはない。
でもはてなは「本当に」気持ち悪い。
まあはてなというか主に「劣等感やらコミュニケーション絡みネット論壇」のことですが。

そのときどきの「場」ありきの言説にわたしは苛立ちます。
「君ら普段、普通に社交辞令使って生きてるでしょ?」
「コミュ障害って、その流儀が気性に合い、それで十分やってこれたからそうしてるだけでしょ? 不満はあっても自分の流儀を変える気はないでしょ?」
「そういうことで身体に障るほど考え抜いたり悩んだりってことないでしょ?」
そのように、襟首掴んで問い詰めたい。
煎じ詰めれば、そこがはてなだから、そのように言ってるだけでしょう。そしてその自覚は眠らせてあるのでしょう、と。そこ以外では思ってても言えないという意味でなく。

(他人の悩みの軽重を勝手に決め付けるなよ、というどこかからの声に、いやわかるよ、だってホンモノが持つ致命的な個別性による「わからなさ」が含まれてないから。と答えてみる)

彼らを見ていると、子供の時のホームルームで、その場の流れのみに立脚し消費される奇妙な結論が生まれてめでたしめでたしという空気に対し…
「お前らみんなおかしいよ。何の意味があるのその結論?」と言い出して総スカンを食らった恨みが、ふつふつと再燃する(というのは、もちろん字面通りの「実話」ではありませんが)。

(「大人のブリッコ」が平然と通用する場がキモい、って言えばいいのかな。ムカつくのはその場そのものに対してではないのだけれど)

> nbさん
ずいぶん前、確か大塚英志だったと思うんですが、「所詮、論壇なんてプロレスみたいなもんだ」みたいなことをいっていましたね。うろ覚えですが、つくる会とか戦争論とかで論壇が俄かに活気付いていた頃だったと思います。論壇なんてなんだかんだいってもガチンコじゃないよね、というのはあらゆる言論の場につきまとう類の疑義なのかもしれません。
まあ、それでもはてなで発言する人たちの立ち位置はまだ幅がある方かな、とぼくは思っています。仰るように流れに乗りすぎな側面もありますが。「空気を読まない」宣言のフォロアーたちが、そんなはてなの『空気を読んで』追随するとか分かりやすすぎますね。これは別に批判ではなく、そういう構造に無自覚になり得る言論の場というのが面白いと思ってしまう。同調圧力や馴れ合いに否定的な人たちの同調圧力や馴れ合いが散見される、みたいなことですね。
で、それを意識的にやっている方がぼくは「気持ち悪い」と思うんですよ。けれども、一部を除いて大抵の人はその辺無自覚なんだろうな、と。そこに野暮なツッコミを入れるのがこのブログでの最近の愉しみでもあるわけです。…にしても、「大人のブリッコ」っていうのは、一種のポピュラリズムなんでしょうか。だとしたら、はてなという場がその人にとってかなり大きな意味を持っていることになりますね。その通りなら少し気持ち悪いというか、危ない感性かもしれません。

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