不完全なコミュニケーションという豊穣

世の中には伝わることを前提に話したり書いたりする人が意外に多いらしい。

特にネットでそれは顕著に見える。他人様のブログやはてなブックマークなど眺めていると、そういう印象をたびたび受けるのである。そして、書き手の口が達者なほどその責は読み手に押し付けられるし、その逆もある。「誤読してんじゃねえ、よく読めバカ」と「分かるように書け、バカ」は、どちらも根拠のない責任の押しつけだろう。自分の文章力や読解力は決してスタンダードではない。インターネットのように不特定多数がコミュニケーションする場においてはなおさらだ。ディスコミュニケーションの原因を他者にのみ求めるのはあまりフェアな態度とはいえない。

たとえば、ある文章を一部の人はちゃんと理解しているけれど、より多くの人が誤読している場合、それは「内容が難解なため」かもしれないし「表現が高度なため」かもしれないし「説明が不十分なため」かもしれないし「文章が下手なため」かもしれない。自分の書いた文章を、自分が分かるのは当然である。けれども、他人がそれを分かるのは当然ではない。これは自戒も込めて書くのだけれど、書き手は往々にして「分からないヤツが悪い」「誤読するヤツが悪い」と思いがちである。場合によっては、読み手のリアクションを書き手が誤読して話をややこしくしたりもする。

こうした行き違いを少しでも減らしたいなら、まず、書き手はある程度読者層を具体的に想定することだろうと思う。無意識に書くと自分を基準にしてしまう。これは拙い。語彙ひとつとっても、「分かってもらうための選択」をしなくなる。そして、伝えたい層をある程度想定したなら、そこから外れる層からの不本意な反応には鷹揚な気持ちで臨むことである。読者層に一般的な高校生を想定して書いたなら、幼児からの素っ頓狂な批判や、専門家からの上目線な繰り言を浴びて必死になる必要はない。ただ、当の高校生にまったく伝わらなかったなら、それは自省すべきである。

一方で、無理解を指摘された読者が「難しいことを分かりやすく書ける人が本当に賢い人」なんてことをいったりする。ぼくはこれも乱暴なものいいだと思っている。誰にとって「分かりやすく」書くかは、書き手が選択することだからである。その対象に自分が当然入っているべきだなんて思うのはただの思い上がりである。ただし、読む自由や間違っていても反応する自由はある。心にとめるべきは、その読みや反応は決して「正しい」わけではないということだ。それは「自分なりの解釈」であって「正しい解釈」ではない。これは対象をどれほど深く理解していても同じだ。

そもそも「分かる」という言葉は幅が広い。「文意が分かる」「文章の趣旨が分かる」「その主張の社会的意義が分かる」「主張から書き手のバックグラウンドが分かる」「主張の裏に隠された真意が分かる」「そこに書かれなかった問題点が分かる」などなど、人によって理解の仕方や深度は様々だろう。場合によっては、書き手の意図を超えるかもしれない。そんなことが可能なのは、読み手は書かれたテクストを読みながら「自前で」再構築するものだからだ。これは、他人のテクストを主材料に、自分用テクストを脳内執筆しているのに近い。出来上がりは当然別物である。

その別物を見て「それは別物だ」などといってみても仕方がない。しかも、そうしたディスコミュニケーションはもう当たり前に「前提」である。ただ、その別物が生成される過程で共有された何か…それがコミュニケーションの核となる。何も共有されなければ、そのコミュニケーションは残念ながら成立しない。そして、実のところ、コミュニケーションの豊穣とは、その核を共有した上で周囲に零れ出したディスコミュニケーションにこそあるのだと思う。自分の思考がそのまま他人の脳内にコピーされるような完璧なコミュニケーションなど、思索においてはむしろ不毛だ。

ぼくたちは不完全なおかげでこうしてコミュニケーションを楽しむことができる。

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