女の子に限らず大抵のお喋りは対話を求めていない

人は普段、さほど他人の話を聞きたいなんて思ってはいない。

話を聞く時、女の子を不機嫌にさせる3つの言葉 : ライフハッカー[日本版], 仕事も生活も上手くこなすライフハック情報満載のブログ・メディア

相手の意見や感想が聞きたくて会話を始める。そういうシーンが日常の中にどれほどあるだろう。リンク先に書かれていることは、要するに、女の子は対話を必要とはしていない、という話である。この場合、求められているのは受容や共感の類である。これは何も「女の子」なんて属性に限った話ではない。同僚に「Google Chromeさっそく入れてみたんだけどかなり好い感じ!」なんて話を振る。「ああ、おれはGoogle嫌いだから入れないけどさ。Operaで間に合ってるし」とか返されて会話が盛り上がる可能性は低い。「マジで、おれも入れてみよ」くらいの反応を期待してもいる。

もちろん、昨今のブラウザやGoogleについて議論したいという潜在的な需要が話者の中にある場合はその限りではない。「Google Chromeってよくね?」というタイムリーな話題を切っ掛けに、彼にとって有意義な議論に発展する場合もあるだろう。けれども、それが日常的な会話のありようかといわれるとはなはだ疑問である。日常会話の多くは何か伝えたいことがあるか、沈黙の埋め草あたりがほとんどだと思う。どちらの場合も、相手の話というのはさして重要ではない。自分に何かいい分がある場合など、相手の発言が引き立て役以上の役割を果たすのはいかにも望ましくない。

一方、対話を求める会話というのもあるにはある。たとえば、あまり親しくない人に興味を持った場合なんかは、それにあたるかもしれない。恋愛初期の状態なんかを思い浮かべるとわかりやすい。こうなると、むしろ相手のターンこそがメインである。お互いに興味を持っている状態なら、お互いがお互いの話を聞きたがる。だから、会話が楽しい。これは会話の理想形のひとつだろう。逆にいうなら、相手への興味を演出し気持よく話させる技術によって、人間関係を良好に保つことは可能かもしれない。そういう技術を自然と身につけているのが生粋のコミュ強者なんだろう。

こうした会話のありようは個人ブログを見ていても近い印象を受ける。アフィリエイトやなんかの実利的な理由を除けば、わざわざエントリーを書くのは大抵いいたいことがあるからだと思う。そして、多くのブロガーは公開することでより多くの同意や共感を得ることを期待しているのではないだろうか。批判的な反応を含んだ多様な意見を期待しているという人は、たぶん少数派だと思う。結局のところ、ブログやネットの双方向性は自己の承認を前提に歓迎されているのである。でなければ、的確な批判には対話を求めるはずだし、的外れな批判なんてスルーしてしまえばいい。

恙無い日常においては、ネットほどあからさまな自己主張はそう起こらない。いい換えれば、そうそう自己承認欲求を前面には押し出さない。気軽な承認を求め合うような会話であれば、気軽な同意や共感の態度をもって円滑なコミュニケーションを維持しようとする。リンク先にあった3つの例は、こうした気軽な承認を拒否したり、相手の承認欲求に対して自分の承認欲求で応じるような行為といえる。これはど真ん中にミットを構えているキャッチャーにフォークボールを投げ込むようなものだ。いくらいい球でも、サイン違いでは相手にいい顔をされないのも仕方がない。

たぶん、承認欲求が高まりすぎると相手の承認欲求が見えにくくなるんだろう。そうした一方通行の承認欲求は、自分の正しさを証明するために相手を否定するという態度になって表れやすいように思う。些細な意見の行き違いが、まるで自己を賭けた議論でもあるかのように対立するのはこのためだろう。こうなると、重要なのは議論の内容ではなく、承認が得られなかった事実のみということになる。だから、どちらかがいくら理路の正しい説得を試みても相手を納得させることは難しい。承認という要素だけに注目するなら、日常会話はギブアンドテイクで成り立っている。

であれば、一方的な承認欲求は非コミュ化する可能性が高いともいえる。

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