すべてのコミュニケーションは誤解からはじまる

「わかる」という言葉には気を付けないといけない。

たとえば、“崖の上のポニョ”を観たAさんが「よくわからなかった」という。それを聞いたある人は丁寧に粗筋を説明した。Aさんは「いや、話の筋はわかるんだけど」という。別のある人は下敷きになった人魚姫との対比を語った。Aさんは「うん、それはそうなんだろうけど」という。また別のある人はクトゥルー神話との類似を指摘した。Aさんは「へえ、確かに似てるね。でも、話の型というのは多くの物語で結構再利用されているものだよね」という。また別のある人は宮崎駿の意図について公式サイトにあるような話をする。Aさんは「それぼくも読んだよ」という。

Aさんに説明を試みた人たちはそれぞれに“崖の上のポニョ”を「わかった」と思っている。ただ、そのわかり方には大きな差異がある。ある人は粗筋を理解することでわかったと思う。ある人はルーツを知ってわかったと思う。ある人は自分の知識体系に当て嵌めることでわかったと思う。ある人は制作者の意図を調べてわかったと思う。他にも色々なわかり方があるだろう。アニメーション史における作品のポジションを分析したり、作画や演出など技術的な側面に光を当てるようなわかり方をする人もいるかもしれない。「わかる」という感覚には、これほどに個人差がある。

映画みたいなものはそもそも多様な理解を許すものだから、色々なわかり方があって当然だ…そういう意見もあるかもしれない。そこで、もっと別の例をあげてみる。Bさんは分数同士の割り算がわからないという。ある人は、割る方の分子と分母をひっくり返して掛ければいい、という。別のある人は、分数自体が割り算なんだから不思議なことは何もないだろ、という。またある人は、割られる方をケーキ、割る方を箱として、1箱あたりに割り当てられるケーキの量を考えればいい、という。そして、Bさんは彼らのいうことは解かるのに、やっぱりよくわからない、という。

Bさんは他の3人に比べて分数の割り算に対する理解度が低いわけではない。にも関わらず、他の3人は分数の割り算をわかっているものとして生きているのに対して、Bさんは分数の割り算てよくわからないよねと思って生きている。つまり、何をもってわかったと感じるかには相当に個人差があるのである。これは当たり前なんだけれども、なかなかに深刻な問題である。ぼくがよく「コミュニケーションは絶望的なディスコミュニケーションを前提とせよ」みたいなことをいうのもこのためだ。人が「わかった」というとき、それは決して「共通理解を得た」という意味ではない。

ブログやはてな界隈を見ていても、様々なレイヤーにおけるディスコミュニケーションが感情の行き違いを生んでいる。誰かの何かを読んで「わかる」ことが、ゴールだと思うからそんなことになるんじゃないかと思う。その時点でわかったことの多くは、実は誤解である。そのまま納得するなら問題はない。完全な相互理解など所詮不可能なのだし、誤解の中にも得るものはあるはずだからだ。まあ、奇跡的にかなりの相互理解が得られている可能性もないことはない。問題なのは納得できなった場合だ。お互いがお互いをわかったつもりで対話を始めるとロクなことにならない。

まず、自分が相手の書いた内容を「わかった」と思うから、それは間違っているとかお前はわかってないとかいってDisることに躊躇いがない。無自覚な上目線発言というのも自分の理解に疑いを持たない場合に起こりがちな気がする。これはぼく自身やりがちなので、気を付けなきゃなと折に触れて思う。もちろん、最初からネットでのコミュニケーションなんてただのストレス発散だと割り切っている人もいるだろう。理解する気もされる気もないね、と。諦めている、という人もいるかもしれない。けれども、折角ならできるだけ多くのものを得たいと、ぼくは思ってしまう。

だから「わかる」という誤解から対話をはじめてみよう。それがたとえ幻想だとしても。

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