新しい意味を見出さない分析に意味はあるのか?

分析の面白さは、実は勝手に意味を見出す面白さなんだと思う。

はてなブックマーク数(○○users)は何を表しているのか - インターネットください
はてなブックマーク - はてなブックマーク数(○○users)は何を表しているのか - インターネットください

だから、こういう議論の展開は意外というか、興味深い。これは新たな意味を付加せず、誰かが付加した意味を根こそぎ剥ぎ取って見せた例だからだ。この方向性の行きつく先は決まっていて、ブックマークコメントにあるululun氏の「(○○users)があらわしているのは、当該エントリをブックマークしている人の数ですよ。」ということになる。つまり、当たり前である。こういう議論が成り立つのは、当たり前が当たり前じゃなくなったときだ。要するに、「たくさんブクマされるエントリーは良エントリー」というような後付けの意味が、本義のように広く誤解された状況でのみ成り立つ。

翻って、元々そんな押し付けの意味を鵜呑みにしない人間には、同意はできるけれど新味はない議論ということになってしまう。それは例えるなら「セックスとは○○のようなものだ」というお題に、「生殖器同士の接触行為である」と答えてしまうようなものである。まあ、間違ってはいない。大いに同意するところではある。が、それ以上のコメントはし辛い、というところが少なからずある。もちろん、リンク先のエントリーで目から鱗を落とす人はいるだろうし、それはそれで意味がある。たとえば、リテラシー的な意味で。だから、別に当該エントリーを貶そうという意図はない。

繰り返す。原理主義的な本質論が無駄というわけではない。ただ、はてブというのはそれほど複雑な代物ではない。であればこそ、議論の面白みはむしろ「はてブとは○○である」というお題に、いかに意外性があって機智に富んだ答えを見出すかにあるように思う。たとえば、「はてブのユーザー数は与党支持者含有率に比例する」とか「はてブとはカセットテープのB面のようなものである」とか「はてブのホッテントリはリア充のためにこそある」とか、まあとにかく、いままで誰も指摘しなかったであろう切り口ではてブを分析する。新しい発見はこういうところにこそ、たぶん、ある。

目から鱗を落としたら、次は新しい鱗を自作してみてはどうだろう。

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