公共の場で泣き叫ぶ乳幼児もキレる大人も人にあらず

そもそも理性の外にある者に理を説くなど徒労である。

さかもと未明女史、飛行機中で赤ちゃんに泣かれて逮捕寸前のクレームを起こす

この手の話題で理性的な態度の代表といえば、「泣き叫ぶ乳幼児に対する寛容」を説くことだろう。なるほど、子供は大人の都合などお構いなしに騒ぐ生き物である。それを親のせいだなどといって詰るのは、どこかネジの緩んだ阿呆のすることだ。ぼくは我が子を持たない半人前だけれど、乳幼児が親の言いなりになると思うほどに脳天気ではない。あれはご立派な親がいくら厳しく躾けようが言葉巧みにあやそうが、そんなことには微塵も忖度せず、ただ心のままに奇声を発し力の限り動き回る理解不能の不完全生命体である。そんなものの責任を親にとらせようなどとは無理筋も甚だしい。少なくとも理性的な大人のすることではなかろう。

にもかかわらず、そんな不完全生命体の奇行にぶちキレてクレーマーと化す大人がいる。面と向かって「いい加減黙らせろ」だの「迷惑だ出ていけ」だのと頭の悪いこといいだす。親は親で、我が子のアンコントローラブルな行状に日頃から肩身の狭い思いをしているせいか、酷く弱腰な態度で狼狽えてしまう。かくして、赤子の叫び声と、クレーマーの理不尽と、親の狼狽とが、傍若無人にその場を支配することになる。爆心地からは鱗状の毒電波が大量発射され、居た堪れなくなった目撃者たちが伏し目がちに黙り込む。事態は明らかにクレーム発生前より悪化している。だいたい、クレーマーの出現によって事態が好転する可能性はゼロだ。

こんなとき、クレーマーの不寛容を指摘し「寛容な社会を」と説くのがバランスのとれた大人の意見であるらしい。本当にそうだろうか。幼子というのは状況を鑑みて泣き叫んでいいかどうか判断できる生き物ではない。傍若無人が本性である。寛容、不寛容をいう以前に、そのようなものである、としかいいようがない。理性的に考えるなら、そんなものにキレても無駄だし、理を説くなど滑稽でしかない。冬がくるたびに寒いといってキレたり、その寒さがいかに迷惑か理を以て説くくらいにバカバカしい。常夏の島に移住する計画でも立てるほうがまだしも建設的だろう。子供の傍若無人を受け入れられないなら皆殺しにでもするしかない。

実は、クレーマーも同じなのではないか。最近、そんな風に思うようになった。彼らは状況を鑑みてぶちキレるべきかどうか判断しているわけでは、おそらくない。どうにもならないものにイライラしたりキレたりするのはただの情緒不安定か、そうでなければ乳幼児と同じで「そのような生き物」なんだろう。そこに人としての理はない。傍若無人が本性である。ならば、クレーマーに理を説くというのも、赤子に理を説くのと同じくらい無駄なことではないか。たとえば、冷静に判断して理性的にキレて見せている、そういうことがないとはいわない。が、実際には極めて稀だろうし、いずれその判断は誰も幸せにしない。単なる愚行である。

だからクレーマーにも寛容を!…などという話ではない。彼らは丸い地球がなぜか太陽の周りをグルグル回り続けるように、なぜか赤子の声にイライラしてぶちキレる。ただ、そのようなものとしてぼくたちの前に立ち現れる。そこに寛容も不寛容もない。寒い冬をそのようなものとして受け流し、泣き叫ぶ赤子をそのようなものとして受け流すように、キレるクレーマーをそのようなものとして受け流す。彼らを静まらせるのは、来たるべき豊かな未来社会かもしれないし、先進の精神医学かもしれないし、明日出会うはずの人生の伴侶かもしれないし、第三次世界大戦かもしれない。少なくとも、たまたま居合わせたぼくたちの仕事ではない。

当然、泣き叫ぶ我が子を前にした親の仕事でもない。

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