公共マナーと寛容のバランス

AC公共広告機構CM画像電車でヘッドホンの音漏れを指摘されたことがある。

その頃使っていたのは、半密閉の安価なヘッドホンだった。漏れている音は自分では聞こえない。見知らぬ人に肩を突付かれ、無言で耳を指差された。ヘッドホンを外して首を傾げると、「音が凄い」と、もの凄く渋い顔をされた。余程腹に据えかねていたんだろう。

それ以来、そのヘッドホンを使うのは止めた。

少し前、音楽を聴きながらハンバーガーを食べる青年が、部屋から電車に時空転移するというテレビCMをよく目にした。「電車は、あなたの部屋ではありません」というメッセージを打ち出した、AC公共広告機構のテレビCMである。公共マナーを見直そうという趣旨らしい。

あれを見て、まったく最近の若いもんは…と思った人は多いかもしれない。実際、日々電車を利用していれば、あの手の若者は掃いて捨てるほど見かける。ぼくもしっかりそのひとりを演じていたわけである。そんな実情だから、あのCMに共感した人は少なくないだろうと思う。

ところで、こうしたパーソナルな行為をパブリックな場で為すことは何故いけないんだろうか。昨日の朝も、バスでおにぎりを食べ、続いて化粧をしている女の子を見かけた。ぼくとて、これを恰好良いとは思わない。けれども、別に気にもならないというのが本音である。

ぼくはその子になんの興味もないからだろう。

ヘッドホンの音漏れは、なるほどこれは一種の騒音に違いない。気遣いひとつで消せる騒音なら消すに越したことはない。友達同士大声で喋るのも、音を出して携帯ゲームに夢中になるのも、携帯電話で話をするのも、およそ似たようなものだと思う。

ガタゴトと枕木を踏む音だけが響く車内は、もしかするととても快適かもしれない。けれども、正直にいえば、多少うるさくたって構わないじゃないかとも思うのである。電車が人の咳払いまでクッキリ聞こえるような場所である必要性を、少なくともぼくは感じない。

もちろん図書館や映画館のように、目的の明確な場所でその目的を阻害するような行為は控えるべきだと思う。上映中の映画館で携帯を鳴らしたり、バックライトを煌々と照らしてメールチェックしたりする輩を見ると、頭のひとつもはたいてやりたい気持ちになる。

それに比べて、電車や路上や公園といった公共の場は、そこでの過ごし方という点で非常に曖昧な性格の場所である。つまり、無言のコンセンサスが取りにくい場所なのである。人前ですることじゃないとはよく聞く言葉だけれど、その線引きは到って個人的なものだろう。

たとえば、読書というのは非常にプライベートな行為である。ならば、人前ですべきではないという考え方もあり得るだろう。読書がOKだという人でも、ポルノ小説はどうかとか、アダルトコミックはどうかとかいうことになると、NGだという人もいるに違いない。

スポーツ新聞の風俗情報欄を、電車で堂々と読んでいるオジサンなんかも白い目で見られがちである。プラットフォームのキスシーンや、人前で密着しすぎのカップルなんかもこの類だろう。こうしてみると、どうやら羞恥心に関わる物事も疎まれやすいらしい。

人を殴ったり、うんこを撒き散らしたり、明らかな犯罪行為や迷惑行為は、電車じゃなくてもしちゃあダメである。けれども、食べ歩きがいけないとか、電車で携帯電話を使っちゃいけないとかいうのは、相当に曖昧な民意に基いたルールのように思う。

ちなみに携帯電話の話をするとペースメーカーがどうのという人が、必ず出てくる。こういうのを大義名分という。主客でいうなら明らかに客だろう。携帯電話がペースメーカに一切影響を与えないことが証明されても、電車内通話は変わらず煙たがられるだろうからだ。

結局のところ、公共マナーというのもよくわからない。

人がやってるのを見るとなんかムカツク。なんかウツクシクない。なんか目障りだ。なんか耳障りだ。そうした主観のもと、自分を棚上げして批判したくなるような行為、それも大抵は取るに足りない行為が、公共マナー違反のレッテルを貼られる。

どうもその程度のものに思えて仕方がない。

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私は込み合った電車で足を開いて座っている男性を見たらムカッときますね~^^;
「そんなに足を開かなくても座れるでしょう!」ってね。
その人が足を閉じて座ってくれたら、小さいおばあちゃん一人位は座れるでしょう?

どうして男性は足を開いて座る人がいるのでしょうね?
まあ、女性でも足を開いて座っている人も居ますが…^^;

人ってそれぞれだから、万人が「迷惑だ」と思っているわけではないとは思います。
でも、明らかに周りの人を不快にするような行為は、やはり慎まないといけないなって思います。
他の人を思いやる気持ちが、大切なのではないでしょうか。

makotoさん、いらっしゃいませ。
みんなが同じ程度に他人を思いやり、みんながそのことに意識的な世の中なら、ほとんどの社会のルールは不要でしょうね。
なかなかそうはいかないせいで、電車のマナーなんて気にしだすとキリがありません。2人掛けのボックスシートを荷物で占領するおばさんや、通路に座り込む学生や、土足でシートに上がる幼児を注意しない親などなど、枚挙に暇なしというやつです。
けれども、ぼくはあまりこの手のことが気になりません。たいてい本の世界に旅立っていて、周囲の状況が脳にまで到達しないからです。
まあ、本を読む気も起こらないくらい疲れてるときなんかは、何を見てもイライラしているような気もしますが。人間疲れると心が狭くなるのかもしれません。

そうですよね~。
みんなそれぞれが同じ程度に思いやりと意識を持っていたら、何も問題はないでしょうね。
それが出来ないのが人間なのですよね~。^^;

最近電車に乗る機会が結構ありますので、色々目に付くのでしょう。
本が読めない位込み合っている事が多いですから。。。(苦笑)

でもね、良い気持ちになる事もあります♪
この間も込み合った電車で、乗車してきた老人にサッと席を譲る人を何人か見ました♪
こんな光景を見ると、心が優しい気持ちになります(^-^ )

単に引っ込み思案で席を譲れない人や、タイミングを逸して言い辛くなってしまう状況や、目の前の人が年齢不詳の場合なんかも含めると、案外、潜在的に譲る気持ちを持った人は多いのかもしれません。
本当は固辞されたところで恥ずべきことではないのだし、構わず声をかければいいのでしょうけれど、なかなかそうは割り切れないということもあります。いずれ、周囲を気遣う余裕があるというのは、自身にとっても気分の良いものだと思います。

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