「当たり前」の権利と「当たり前」の保障の間に横たわる溝

問題は、「当たり前」の範囲がよく分からないことじゃないかと思う。

なんでこんな当たり前の話しなきゃいけないんだと思うけれども… - 過ぎ去ろうとしない過去
「人権」っていつから信仰の対象になったんだっけ? - 想像力はベッドルームと路上から
本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去

思うに「当たり前」を混乱させる要素はふたつある。ひとつはもういい加減語り尽くされているだろう「健康で文化的な最低限度の生活」の基準問題である。IT土方として土日もなく1日16時間ほど働きただ寝るためだけの部屋に帰宅しコンビニ弁当を食らって泥のように眠る。ホームレスとして1日10時間ほど空き缶集めに勤しみただ寝るためだけのダンボールハウスに帰り残飯を食らって泥のように眠る。どちらがより不健康で非文化的かと問われてもぼくには答えられないし、どちらの生命がより死の危険に晒されているかもぼくにはうまく判定できない。救済されるべきは、どちらか?

もうひとつの混乱は「権利」と「保障」の関係にある。権利を保障することと生活を保障することはイクォールではない。つまり、すべての国民に対して「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障することは自明かもしれないけれど、すべての国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障することが自明かどうかは定かではない。話を分かりやすくするために極端な例を挙げる。ここに、いわゆる植物状態の人がいるとする。この人にも生存権、即ち「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」はある。けれども「健康で文化的な最低限度の生活」を国が保障することは困難だ。

国による権利の保障と、その権利に派生する生活の保障を同一視するなら、すべての植物状態の人間が「健康で文化的な最低限度の生活」を回復できるよう、国として全力を挙げて治療研究を推進すべきだ。けれども、現実的にはすべての国民の事情を国が保障対象にすることは難しい。逆にいえば、すべての国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障できないことをもって、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」までも侵害しているというのはいいすぎだろう。その文脈でいえば、ホームレスは十分な福祉を享受できていないだけで権利自体を侵害されているわけではない。

国による救済というのは、結局のところ国民同士の相互扶助のことだ。以上のような権利と保障の関係を考えるとき、冒頭に挙げたようなIT土方がホームレスの「健康で文化的な最低限度の生活」のために救済の手を差し伸べるべきだ、というのは必ずしも「当たり前」のこととはいえなくなる。つまり、件のIT土方が「ホームレスの生活向上のためにおれが納めた税金を使われるのは不服だ」というとき、その発言は別にホームレスの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を踏みにじっていることにはならない。それは誰が誰にどの程度手を差し伸べるべきかという問題だからである。

すべての国民の権利は自明でも、何をどう保障すべきかは、まったく自明ではない。

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