BLを擁護するために変態や猥褻を貶めるのは本末転倒である

偏見に満ちた事実誤認と印象操作が「酷い」という趣旨には全面的に賛同する。

BLとBL読みを貶めるのもいい加減にしてもらいたい。 - __ScrapBook of Plumber

ただ、この主張には看過しがたい瑕疵がある。まず「BLの主題はセックスではない」という事実をアナウンスする。そして、「BLの主題がセックスであるような言説は事実誤認、或いは、印象操作である」と主張する。ここまではいい。真っ当だ。ただ、その過程で「正しく事実を認識して欲しい」という意図を超えて、BLは「ポルノではないから」貶められる謂われはないといっているように見えてしまう。それをリンク先の書き手が意図しているとは限らない。が、結果としてそう主張していると「読めてしまう」。それだと、ポルノであれば貶められても仕方がないことになってしまう。

そうした印象は、後段の「ワイセツ」問題以降さらに顕著になる。「初っ端から『ワイセツ』呼ばわりだ。」や「人間関係と精神性が描かれていなければBL読みには受け入れられない」といった書きようは、「ワイセツ」に比べて「人間関係と精神性が描かれて」いることには価値があるといわんばかりに見える。これでは、この書き手が論破すべき偏見に満ちた世間の価値観を見事に代弁してしまっていることになる。内ゲバである。「ポルノではない」や「男性同士のセックスは変態ではない」といった単なる事実の再確認を、「だから貶めるな」という「理由」にしてしまってはイケナイ。

変態的なセックスを主に扱ったエロ漫画にだって、人間関係や精神性や同時代性や社会性や芸術性や文学性を多分に含んだ作品は存在するだろう。そのことと、それを読む人を貶めることとは何の関係もないことである。ただただ変態趣味を満足させるために超絶的変態漫画を読んでいたとしても、それを理由に貶められる謂われはない。幼い少女の手足をぶった切って腹の真ん中に開けた切り込みに性器を突っ込んでハァハァする漫画などえらく変態的だとぼくは思う。男同士がオーラルセックスやアナルセックスに励むくらいはそう変態的だとは思わない。けれども、それは人それぞれだろう。

要するに、人を貶める合理的な理由がないことと、自分の感性の域値を超えた何かに嫌悪を表明したり貶めたりする人がいることとは話が別なのである。人は合理的な理由なんてなくても、ある程度自由に自分の主張を繰り出すことができる。それも健全のうちだ。ある感性が多数を占めればそれが社会的合意として扱われることもあろう。そういう感性は図書館からBLや超絶的変態漫画を排除するかもしれない。が、それはまだ「そんな自由も認められない社会」になることを意味しない。貶められようが図書館で借りられなくなろうが、存在が認められるうちは自由に読めばいいのである。

当然「その書籍に価値があること」と「図書館に所蔵されること」にさしたる相関関係はない。

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