老害は本当に存在するのか?

老害を老害と証明する方法はあるだろうか。

老害というのについて自分の考えを書いておこうかと思う - 404 じゃばてないわー Not Found(一部X-RATED)
老害は一日にして成らず - 雑種路線でいこう

会社内で保守と革新が対立している。保守派は院政を布く老会長を筆頭に、社内システムの刷新や先進的な技術の導入をことごとく粉砕する。曰く、そんなやり方でうまくいくはずがない。曰く、そんなものが商売になるものか。そこには経験に裏打ちされた絶対的自信と揺るぎなきプライドがある。けれども会社の成長は疾うに天井に頭を打ちつけ、むしろジリジリと後退の気配を見せている。老人たちは思っている。不景気の今こそ、耐えるべきときだ。苦しいからといって目新しいものに飛びつくなど言語道断。若者たちは思っている。頭の堅い老人どもめ…。

革新派の意見を容れれば会社は良くなる。それが事実なら、老会長ら年寄り連中は老害と呼ばれても仕方がない。けれども、折れないからこその老害である。老害の前に改革は成らない。革新派はその手練によって会社が良くなることを自ら証明することができない。たとえ年寄連の無策が会社を潰したとしても、革新派の正しさを証明することにはならない。何しろ、経営を革新派の手に委ねたとして、会社の死期を早めなかったという保証はないのだから。かえって被害拡大に拍車をかけた可能性すら否定できない。もちろん、当の革新派連中はそうは思わないだろう。

若い人たちが革新的な方法で成功した例は耳目を集めやすい。けれども、マスで喧伝されるような成功譚は大方少数派と決まっている。同じことをやってうまくいかなかった例など、それこそ掃いて捨てるほどあるはずだ。だからチャレンジするなというのではない。老害が発生するほどの規模の組織は、それ相応の社会的責任を負っている。20代や30代の若者数人で始めたベンチャー企業とは負えるリスクの量に差があって当然だ。過去の実績を忘れてチャレンジするには、全社員の未来を賭けられるだけの切実な動機と、経営陣としての相応の覚悟が必要だろう。

さて、上層部に居座る老人を指して老害と呼ぶとき、当人は自分の若い判断が害になる可能性をどの程度認識しているのだろう。或いは、害を成したときの全社員に対する責任をどの程度負えるつもりでいるのだろう。もちろん、彼の提案を容れて失敗すれば、それは経営陣の責任だ。つまり、老人たちは若者の意見を容れても容れなくても、失敗すれば全社員に対して責任を負わなければならない。一方、老害を攻める側は提案が容れられない限り害にすらなれない。自らの正当性を証明できない以上、老害は根拠のないレッテルである。いい替えれば、ただの愚痴だ。

となれば、若者のいう「老害」は、老人のいう「最近の若い者」とほとんど同質である。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/347

comment - コメント

かなり「老害」よりな考えですが
>若者のいう「老害」は、老人のいう「最近の若い者」とほとんど同質である。
は言えてるかも。
しかし、だからと言って「老害」がいないことにはならないです。
それと、保守=老害ではありません。

> Anonymousさん
そうですね、何かを「ない」と証明することは、たぶん無理だと思います。また、このエントリーは声高に「老害」を叫ぶ人に対して、それって本当?と問いかける意味で書いたもので、現実には「老害」も「若害(?)」も存在すると思います。あと、保守vs革新の図式はリンク先をはじめとして目や耳にする話を元にでっちあげたただのたとえ話で「保守=老害」と決め付ける意図は特にありませんでした。誤解を生むような表現だったかもしれませんね。

コメントを投稿

エントリー検索