誰かを見殺しにする社会、誰かのために自滅を厭わない社会

これはもう、ただ脳天気に同調したり溜飲を下げるだけではすまない話である。

「お年寄りを見殺そう」という第三極の政治勢力: やまもといちろうBLOG(ブログ)
404 Blog Not Found:備忘録 - そもそもなぜ老は敬われてきたのか

“我々が一人分の子育てを犠牲にしてまで、あなた方に貢ぎ続けた代わりに我々が得るものは一体なんなのか。”とは、老人にとって辛辣な問いであると同時に、ぼくたち現在進行形で「貢ぎ続け」ている世代にとっても重い問いだと思う。この問いかけにある「我々」は、実は、ぼくたちのことではない。「あなた方」も含む「社会」のことである。それを「我々」と書くことで、小飼弾氏はぼくたちの無意識の「主観」を刺激し、煽っているようにも見える。下手に煽られて勘違いしないように、先の問いを言い換えるならこうだ。「相対的に将来価値の高い集団の生存可能性を犠牲にしてまで、社会としてすでに利を吸い上げ終わった将来価値の小さな集団にリソースを分配する意味はあるのか」。

これは端的にいって「社会に利せぬものを社会が養うこと」への疑義である。ぼく個人やあなた個人とは関係なく「社会」というものの存続に重きを置いた問いだ、といってもいい。少し考えれば分かることだけれど、これは何も自明の前提ではない。社会の性質を決めるのは、その構成員たるぼくたちだ。「社会の存続」以上に価値あるものなどない。そういう社会を望むなら、ぼくたちは過去の遺物たる老人他、無益な人間たちを見捨て、未来の可能性たる子供たちにすべてを賭けるべきだ。自ら老残となったときは潔く社会から去らねばならない。一方、「誰も見殺さないこと」が何より大切だという社会も当然あり得る。すべてを諦めず、全力を尽くし、なお滅びるなら仕方がないという社会だ。

こうして、先の問いは「人と社会の関係はどうあるべきか」に繋がっていく。一般にひとりの人間の一生と社会的リソースとの関係は「負に始まり、正に転じ、また負に戻る」というものだろうと思う。たとえば平均的な日本人が83歳まで生きるとする。この内、社会対個人におけるリソースの需給関係が社会側にプラスの時期は、果たしてどれくらいあるだろう。大卒から定年まで、と長く見積もっても精々40年弱。ならば、人生の半分以上は社会的にマイナスだ、といえなくもない。むろんプラスの時期だって消費がゼロになるわけじゃない。つまり、この間に自ら消費するリソース分にプラスして、大卒までの前借り分と定年後の余生分のリソースを稼ぎ出せない人間は、社会的にはお荷物である。

個々人レベルでは生まれて死ぬまでとことん債務超過だったり、平均的な日本人の100人分くらい過払いだったり色々だろう。そもそも何をもって「社会的リソース」とするのかという根本的な問題もある。ならば、いまお荷物扱いされている高齢者らの人生が支払い超過でなかったと誰が言い切れるのか、とも思う。排除されるべきは本当に「あなた方」なのか。「我々」が生きながらえることに、それほどの価値が本当にあるのか。人は「公」と「私」の緩やかなグラデーションの中に己が立ち位置を見付け出しながらふらふらと生きている。多くの人は自らの両親や子供らを社会的価値で量ったりはしないだろうし、一方、自らの社会的価値にまったく無頓着でいられる人もそう多くはないだろう。

個人の価値というのは、もっともミクロな視点において最大化される。そして、マクロになるほどその価値は制限され、多様性を失う。満足に動くことも考えることも困難な身体に生まれついた、極めて生産性の低い人間も、両親をはじめとする近親者にとっては価値があるかもしれない。個人にとっての価値はその人の幸福に資するかどうかで決まり、しかも、人の幸福に制限はないからだ。けれども、ある限られた時代の限られた社会が要請する価値は極めて限られている。老人、障碍者、石女、ニート…多くの人間が社会によって「不要」の烙印を押されてきた。その時代のその社会が要請する価値に従って「全体最適」を目指すというのなら、彼らを見殺しにする、という選択はまったく正しい。

たとえ自らの老父母がいつか社会的負債でしかなくなったとしても、それを敬い、感謝し、老い先短い人生の幸福に心砕かずして何の人の子の一生か。将来に亘って社会的価値がゼロかもしれない、むしろトータルでマイナスかもしれない我が子を、それでも愛し、慈しみ、育てることこそ人の生きる道ではないか。「私」を生きる生き方に正解はない。「社会」はどうか。「社会」が個のためにあるべきか、「社会」のために個があるべきか。難しい話ではない。ただ考え、態度を選ぶか保留するだけだ。冒頭のブログに頷くことは、政治的判断は「社会に利する可能性」の多寡によってなされるべき、という態度を肯定することだ。正誤や善悪の話ではない。どんな社会を望むのか、という話である。

ちなみにぼく自身の非社会的態度については、子をなす気がない、と書くだけで十分だろう。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/682

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索