究極の平等とはどんなものか?

人は誰にとっても異論のない平等を与えることができるだろうか。

ぼくは特定の思想についての素養がないから「左翼の人が考える平等の定義」だとか、そういう各思想における平等の定義みたいなものはまったく分からない。だから、ずいぶんと掴みどころのない話になると思う。ともあれ、平等にも人それぞれ定義があるんだろう。たとえば「機会の平等」こそが真の平等だという人がいる。それは多分に政治的な判断を含んだ平等の定義だと思う。或いは、十全な意味での「結果の平等」を諦めた結果、最適解として「機会の平等」をいわざるを得ないという立場もあるかもしれない。市場原理を、ある程度自浄作用が期待できるものとして。

そうした、あらゆる意味での諦念、妥協を許さないとするとき、そこに立ち現れる平等とはどんなものだろう。それは当然、機会においても、過程においても、結果においても、あらゆるフェーズで、また、あらゆる意味で平等たるべきだろう。問題は、どういう状態をもって「平等」と呼ぶか、である。その基準を定めるのは誰か。人だろう。人が決めるしかない。おそらく、それを決めてくれる神はいない。では、あらゆる人にとって、あらゆる意味で平等であるという基準を提示できる人はいるのか。「法の下の平等」という概念で、そうした平等を提供し得るのだろうか。

てっとり早く「結果の平等」だけを考えてみる。まず、ここでいう「結果」とは何だろう。勉強した結果か。勉強しなかった結果か。働いた結果か。働かなかった結果か。或いは、この世界に生まれてきた結果か。人が人に与えられる結果とは何か。教育によって得られる知識は結果か。すべての人に平等に知識を授けることは難しい。教育の成果は結果ではないのかもしれない。教育を受けた後、社会に出て職を得る。その時、就いた職は結果か。であれば、あらゆる能力的理由によっても結果に不平等が生じることは容認できない。では、誰もが平等に職に就くことは可能か。

それよりもなによりも、そもそも働けない、働く気がない、というケースもあろう。ならば、就職を結果と捉えるべきではないのかもしれない。であれば、社会に出て金銭を得ることが結果だろうか。収入が生活を大きく左右する世界において、それはひとつの結果かもしれない。では、その結果の平等とはどういうものか。成人以上は全員無条件で年収500万円に固定なら平等か。いや、それも違うだろう。たとえば500万をどぶに落としたり、ギャンブルで全額すったりした人が満足に暮らせないのでは結果を保障したことにならない。ならば結果とは、平等に満足な暮らしだろうか。

その満足はどうやって判断すればいいのか。全人類分の満足を計測し正しく均すことは可能だろうか。たとえば、日本国民の生活レベルが本当の意味で総中流になったとして、南の国の紛争地域に生まれてしまった人がその恩恵を受けられないことは平等ではないようにも思う。平等原則がホームレスを不可視のものとして無視することを許さないというとき、日本国外にある生は不可視、或いは、無関係のものと考えるのが当たり前なんだろうか。それは日本の法だからか。ならば、それは世界の法にすべきではないのか。それは「現実的ではない」から考えるべきではないのか。

そんなあらゆる難題を乗り越えて、全人類に適切に満足な暮らしの糧を分配できたとする。全人類がそれなりに衣食住に足りていて、その生活の質に観察可能な差はない。日本に生まれた盲聾者も、アメリカに生まれたゲイの白人も、アフリカに生まれた足のない黒人も、みんな同程度の生活レベルを約束され、納得もしている。そんな世界にあって、不慮の事故のために5歳で死んでしまった少年と、20歳で暴漢に嬲り殺された女性と、100歳まで頑健に生きて死んだ囚人は、結果の平等を共に享受できたと考えていいのだろうか。それは不幸や不運で片付けるべきことなんだろうか。

人が全人類に真の平等を与える唯一の方法は、核のボタンを押すことかもしれない。


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#この記事に触発されて考え始めたはずが、どんどんかけ離れた話に…。

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