一個人の価値観が公共の利益を決める歪な社会

この問答の気持ち悪さは、市民と図書館の見解の無言の一致にある。

「市民の声」Q&A 広報・広聴

市民の声を読むと、「破廉恥」「非常識」「セクハラまがい」「堺市の恥」といった個人の価値観が繰り返し強調されている。これらの個人的感想とBLの価値との間に意味のある相関関係はない。にもかかわらず「すみやかにBLを換金し、他の有益な図書の購入費に当てるよう、強く強く要望いたします」とまで書く人の良識をぼくは疑わずにいられない。「他の有益な図書」とは何か。それは実質的に「他の(私にとって)有益な図書」という意味しか持ち得ない。恐ろしく自己中心的な主張である。「難解な学術書なんて無意味だから換金して実用的なエロ本買え」というのと変わらない。

あえて指摘するまでもないだろうけれど、図書そのものに絶対的な価値なんかない。それは閲覧者各人が感得するものだ。その点ではBLだろうが、ポルノだろうが、古典だろうが、純文学だろうが、哲学だろうが、技術書だろうが、図版だろうが、事典だろうが、エンターテイメントだろうが変わらない。くだらないといえばすべてくだらないし、意味があるといえばすべてに意味がある。より正確には、すべてが有益無益どちらの可能性も持っている。一時代の一個人が決められるものではない。少なくとも図書を扱ういい大人であれば、そのくらいのことは承知していてしかるべきだろう。

ところがリンク先においては、「破廉恥な表紙のBLは有益ではない」という点で一市民の声と図書館の声が一致しているように見えてしまう。そうは書いていないのだけれど、そういう印象を与える可能性は高い。これは問題だろう。「今後は、収集および保存、青少年への提供を行わない」という決定が問題なのではない。恣意的な決定方法が問題なのである。図書館の蔵書量や運営費が有限である限り、取捨選択が必要になるのは自明だ。私立図書館であれば「私」の一存で収集方針を決めればいい。けれども、公共の図書館が特定の価値観を追認するような態度を取るのはイタダケナイ。

一市民の見解に反応してBLを排除することは、「情報社会において自律性や自主性をもって図書や情報を選択できるように、読書の環境づくりを推し進める責任を負うものと認識しております」という市の考え方に反している。少なくともBLを選択できないように環境づくりを推し進めている。公共の益は公共が決める。だから、市民の合意、或いは、市の意志として公共の利益を最大化するためBLを捨てるというのなら解る。もし、件の「市民の声」をきっかけに公共の利益を問い直した結果だというなら、その見解を詳らかにすべきだ。BLの排除の根拠となる有益性の基準とはどんなものか。

それができないなら、ただ批判の声に阿ったと取られても仕方がない。

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comment - コメント

 近隣の人間の意見として。
 泉ヶ丘図書館(南図書館のこと)には、BL 関連の本がそれなりにあり、一般書と混じっておいてあります。背表紙を見て手に取ると表紙には男の子が2人、という状況が多々あります。手に取らない限りラノベとの判別は不可能でしょう。たとえば栂分館のようにコバルト文庫専用の棚があれば多少、状況は違ったかもしれません。堺市の恥か否かはともかく、“非常識”は、さもありなん。

 以上を踏まえた上で、lylycoさんの意見にはおおむね同意です。ちなみに個人的には、菊地秀行先生とか夢枕獏先生とか平井和正先生とかの方がある意味エロい気もしますが(笑)

> 棚旗織さん
図書館なのに図書の分類整理が不十分、または一般的な感覚からかけ離れているというのは、それはそれで問題ですね。はっきりBLとわかる蔵書はBLとして分類すべきで、一般のラノベと一緒くたにしてしまうのは不見識やら怠慢やらの類でしょう。ビジネス雑誌とアダルト雑誌を混ぜて置いておくようなものなので、それはひと言意見してやった方がいいかもしれません。
ええ、ええ。エンタメやら純文学やらにもエロいのは結構ありますよね。『眼球譚』とか『O嬢の物語』とかトラウマ度でいえばBLどころじゃない海外文学も割とありますし。件の市民の方は、表紙がエロくなかったり、文学的価値が認められていたりするものには拒絶反応を示さないタイプの人なのかもしれません。

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