不具を笑えないという不健全がありはしないか?

本当に悲しいのは、こうしたことに敏感にならざるを得ない環境の方ではないか。

世界のナベアツの悲しみと楽しみ - 評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
全ての人を笑わせる笑いってないけどさ・・・ - NC-15
ナベアツ「遠藤くん、ひらかたパーク行かへん?」 - concretism

エンターテイメントの定石は「普通ではないもの」を見せることだろう。日常あるものを日常あるままに見せられてもあまり面白くはない。何かが過剰であったり欠落していたりするからエンターテイメントになる。中でも笑いというのは、もっともシンプルなエンターテイメント分野だと思う。あらゆる「普通でないもの」が笑いのネタにされる。当然「劣ったものを笑う」ネタだってある。アジアンやハリセンボンのブサイクしかり、池乃めだかのチビ、坂田利夫のアホなどこの系統に属する笑いは枚挙に暇がない。当然、こうした笑いを好まない人もいるはずだ。

難しいのは、この手の笑いを不健全と見る態度が本当に健全か、という問題である。昔、トッド・ブラウニングという人が“フリークス”という映画を撮った。彼の最も有名な作品であり、彼の監督人生を終わらせた作品でもある。トッド・ブラウニングは少年の頃、サーカスに魅せられた。そして16歳でサーカスの世界に入る。彼が“フリークス”で起用したのは、同じサーカス仲間の畸形の芸人たちだ。愛するサーカスを舞台にした映画に、同業者たちを使ったトッド・ブラウニング。この娯楽作品を非難し上映を妨害した良識人たち。果たして不健全なのはどちらか。

似たようなことは、日本の見世物小屋の歴史にも見られる。見世物は話題性のあるものは何でも見せた。畸形や障害者もどんどん見せた。それが条例で禁じられたのは明治期のことである。文明化の道を歩み始めた国には相応しくないというのが理由だった。見世物やサーカスに問題がなかったわけではない。経済的弱者を不当に酷使したり、本人の意思が尊重されない人身売買が横行したり、ずいぶんと酷いこともあったようだ。そうした非人道的な行いは非難されて当然だ。けれども、畸形や障害をウリにすること自体を道徳的に非難するのは本当に正しいことなのか。

そんな昔の話だけではない。この手の安易なヒューマニズムは、たとえばミゼット・レスラーから職を奪い去った。いわゆる小人プロレスである。江戸や明治の見世物とは違って、彼らはれっきとした職業人だった。そんな彼らの奮闘を見て不具を笑う自分に後ろめたさを感じる。これがそんなに不道徳なことだろうか。障害者を見て滑稽だと感じたり、気持ちが悪いと思ったりする自分を認識することは、実は結構シンドイことだと思う。できればそんな気まずい思いはしたくない。ヒューマニズムの裏にあるのはそういった自分本位の感情だったりはしないだろうか。

自ら心性の愚劣さを自覚せず、障害者やフリークスを嘲り、人格を貶めるような人間はいるだろう。そんな輩の視線を基準に考えなければならないというなら、もう何もいうべきことはない。本当によくできた隠蔽社会が必ずしも不幸だという確信はぼくにはない。けれども、ナベアツのアホ芸を見て障害者を持つ親も一緒に笑えるような世界は、絶対にあり得ないのだろうか。不具を笑うことがちょっとした後ろめたさも込みにして受け入られる世界。たとえば、障害者が障害をウリにした芸人をやる。ぼくはそれを不健全だとは思わない。そうなればいいとさえ思う。

差別意識を薄める最良の方法は隠蔽よりも日常に近付けることではないかと思うからだ。


【関連して読んだサイト(追記)】
私が私を見せるようにあなたが私を見せることはできない - FemTumYum
#ぼくが論旨を明確にするために単純化してしまった大切な差異について書かれている。

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comment - コメント

こんにちは。
この話題、くるっと回ってここにたどりつきました。ダウン症児のかーちゃんです。

>たとえば、障害者が障害をウリにした芸人をやる。ぼくはそれを不健全だとは思わない。そうなればいいとさえ思う。

ずっと前にネット上で見たのですけれど。タイにダウン症者のお笑い芸人がいると。単に「ウリ」にしているのではなく、センスがあるってことだと。どこにあったのかもう忘れちゃったんですけど。へーって思いました。別に差別がどうのとかは思わなかったなあ。笑わせるセンスある子、ダウン症児にはちょこちょこいるので。

あと、俳優の神戸浩さんは脳性マヒによる軽い言語障害があるそうで。人はこの彼の話し方をキャラとして笑って見てますよね、嘲笑ではなくて。
わたしは神戸さん大好きなんですが、「学校2」で知的障害者の役をやったときに、なんかこの役に神戸さんもってくるのは反則、とか思いました。否定ではなくて、好演わかりきってるじゃん、みたいな。実際、すごいよかったです。

> satomiesさん
ダウン症者のお笑い芸人ですか。センスがあるから芸になるというのはその通りだと思います。それこそキレイごとではなくその人のダウン症は芸人としての一個性になっているんでしょうね。ずっと以前、“八日目”という映画を観たのですが、それを観るまではダウン症者というのはもっとコミュニケーション不能な存在だと思い込んでいました。知らないとはそういうことなんだと思います。
ぼく自身は身近に聾唖者の方がいるくらいで、さして障害を持つ人やその周囲の人たちの状況や内情に詳しいわけではありません。ですから、こういうエントリーを書くのは無責任かとも思ったのですが、これも多様な世界に対するスタンスの表明の一種だろうと思って書きました。なので、こうして読まれた方から情報や反応をいただけるだけでも書いてよかったのかもしれないと思っています。

A:臭いものにはフタ式の「安易なヒューマニズム」
B:「隠蔽よりも日常に近付けること」すなわちノーマライゼーションの思想
C:「不具を笑うことがちょっとした後ろめたさも込みにして受け入られる世界」

まず、AにBを対置させるのはいい。
が、BとCは必ずしも地続きではない。ここはちょっと、注意深くなる必要がある。

小人プロレスの場合は、ひとえにレスラーの勇気と覚悟に支えられて、B-C間は架橋される。
その場合、観客が負うものは何もない。「ちょっとした後ろめたさ」は娯楽の一部、スパイスとして消費される。
もちろんそれはそれで問題はない。彼らはエンターテイナーなので。
しかし無論ながら、そのケースを一般化することはできないですね。
誰も彼も、ちょっとくらい笑われても気にすんな、勇気を出せ…とは、「こちら」からはまさか言えないわけで。
B/Cを適当に塩梅したような「健全な」未来を夢想するとすれば、それ自体「安易なヒューマニズム」のバリエーションでないという保証はない。

まあ何だか言葉面にばかりこだわって偉そうに絡んでいるような文面になりましたが。

今現在の、ナベアツの話に即して言うと、差別に過敏になることは差別を隠蔽し助長する悪循環になりかねない…と、社会全体の「強度」の観点からlylycoさんは捉えるわけですね。
それと一括りにしてしまっていいかちょっとわからないけども、こういうジャッジの微妙な問題に際しては、言葉狩り等のように瑣末な外形に目くじら立てるのでなく、差別する意識そのものを問題にしよう…といった「本質論」的な意見がよくある。

私としてはそのように「差別意識」そのものを問題にするより、ある意味では形式的で場当たりな「礼儀作法」の問題として捉えればいいんじゃないかと思います。
芸人の「作法」として、「アホになる」のはライブでの飛び道具に留めておいてはどうか、といったように。
一般的な公正さのようなものを求めず、TPO「だけ」弁えて、どんなネタであろうとじゃんじゃんやればいいと思う。

> nbさん
仰る「C」の笑う対象について、ぼくのエントリーは甚だ説明不足だったようです。はてなブックマークにつけられたコメントやこのエントリーを引用して書かれた他所のエントリーなど見ていても、ああ、しまった!言葉足らずだった…というところが少なからずあります。「ブサイク芸人を笑う」ことと「人のことをブサイクだといって哂う」ことを同列に語るつもりはさらさらありませんでしたが、このエントリーではそうも読めてしまいますね。日常生活を送る一般の障害者を可笑しいといって笑うことを是とせよ…そういう論旨だと思って気分を害した人がいるかと思うと凹みます。
差別意識への対処法として「場当たりな『礼儀作法』の問題として捉えればいい」というのは、なるほど、そうかもしれません。いきなり本質的なところを問題にしても、対処のしようがありませんからね。変えるべきはそれによって引き起こされる個別的な問題である以上、(隠蔽に走るかどうかは別として)ある種場当たり的に問題の軽減を模索していくというのはとても実際的な正攻法だと思います。

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