そして、人は社会のために子供を産む

いまや社会は人間の裏方ではなく、人間の方こそが社会の裏方なのではないか。

子供を生むとか生まないとか - チョコっとラブ的なにか

人間関係も恋愛も結婚も出産も、すべてに意味がないと通らない。そんな窮屈さを感じることがある。好きになった。欲情した。一緒になった。子供ができた。作ったふたりで子供を育てる。好きになったんだからそれが自然じゃないか。一緒になって子供作るのが普通だろ。そんな物言いが通用しなくなった。普通や当たり前なんかない。それが正しい大人の態度になった。結婚なんかして何の意味があるんだよ。子供を産むことの意味がわかってるのか。どちらも、当たり前では済まされない。原因の一端は、ぼくたちの行動が「制度」に取り込まれたことにあるのかもしれない。

たとえば、誰かと一緒に暮らすことと結婚することはイクォールではない。男女が一緒になり子をなし生活の最小単位としての家族を構築する。現在の婚姻制度がなくてもある程度これに近いことを人はやっていただろうと思う。人間以外の動物だってやるヤツはたぶんやっている。ところが、人間関係が高度に社会化してくると、そうした個人の行動もまた社会的意味あいが強くなる。分かりやすい例のひとつが税金と行政サービスで、およそ今の日本に暮らす限り、個人の行動がこれらに影響しないということはない。すべてが社会的行動になる。結婚や出産とて例外ではない。

もう少し以前なら「家」や「ムラ」が社会だった。その後、個人主義の台頭でそうした狭い社会から人は解放されたかに見えた。けれども、実際にはより見えにくい社会に回収されただけである。制度化された行動は、いつか制度に影響を受け始める。行動があり制度があるのではない。まず、制度がある。結婚の意味は婚姻制度が規定する。結婚の意味が社会によって規定されることで、「誰かと一緒になる」という個人の行動がその影響を受けることになる。たとえば、「結婚に非常なインセンティブもないような気がする」から、誰とも一緒にならないという選択をしたりする。

子供を産むのも同じだ。多くの女性は子供を産むか産まないかを「選択」しなければならなくなった。いまや、出産は自然なことでも当たり前のことでもない。産むにしろ、産まないにしろ、それは選択の結果だということになっている。だから、産むことにも産まないことにも理由が必要だ。たとえば困窮した時なんかに、特に必要だ。「ちゃんと育てられないなら何故産んだ?」と責められるからだ。つまり、社会の中で「ちゃんと育てられる」ことがデフォルトで求められる。いい換えれば、社会はまず「選択」を迫り、その上で「選択の結果」に「責任」を求めるのである。

ことほどさように、子供を産むことはいまや社会的な行為である。そこにある個人は「社会の一構成要素としての個人」であることを、ほとんど無意識レベルで受け入れた存在である。もちろん、太古の昔から、出産は種の存続に貢献する行為にすぎないといういい方はできるだろう。けれども、そんなものは一種のファンタージであって、個人の出産行動を規定するようなものではない。ところが、今の社会は個人や自由を重んじるような顔をして、その実とことん「社会的に振る舞うこと」を要求する。個人の行動を規定する。だから「少子化対策」みたいな議論が必要になる。

「少子化対策」されたから子供を産む。そこにある個人や自由とはいったい何だろう。

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