有意義な批判と無意味な批判の境界

批判の視野を広げる。尤もであると同時に際限のない話でもある。

「○○思想(体制)が生み出した犠牲者は~」論法 - 過ぎ去ろうとしない過去

社会学にも歴史にも思想史にも造詣のないぼくは、リンク先で例示されている問題について語るべき言葉を持たない。ただ、考え方そのものは思想や歴史に限った話ではない。だから、批判行為一般の話として捉え直してみる。批判対象は何でもいい。分かりやすく「大量猟奇殺人鬼」とでもしておこう。最も素朴な批判は、彼自身や殺人行為に対するそれだろう。まずは、彼の殺人行為がいかに常軌を逸し反社会的であるかを明らかにし批判する。また、彼の生い立ちや近況から異常性を探し出し殺人に至る萌芽を見出したりする。この辺りまでが第1段階ともいうべき表層批判ステージである。

次にやってくるのは、ゲーム批判やネット批判に見るような「真犯人探し」である。件の殺人鬼は鬼畜AVだの猟奇アニメだの凌辱ゲームだのを多数所持しており、その中の複数作品からヒントを得たと思われる方法で被害者を誘い出し、蹂躙、殺害している。また、被害者との接点はネットの出会い系SNSで、多くの未成年が写真付きで個人情報を登録、公開している。また、死体遺棄や犯罪隠ぺいの方法についてもネットの匿名掲示板などから情報を得ていた可能性が高い。…そんな実態が暴き出され、割と短絡的な批判が行われる。これが第2段階、短絡的原因批判ステージとでも名付けておく。

個人史から引き出せるネタが尽きてくると、ようやく社会問題が取り沙汰され始める。彼はいわゆるロスジェネ世代の被害者であり、就職に失敗して以来、バイトや派遣で食いつなぐも就職活動は一向に実を結ばす将来への希望も持てないまま30歳を超え、ここ数年は実生活にも精神活動にも明らかな悪影響が出始めていた。家族や友人、近隣住人との繋がりも希薄であり、彼の変調を心配する近親者はいなかった。こんな具合に、彼を取り巻く「現代」が描写され、「猟奇殺人鬼を生んだ社会」が問題視される。社会には当然問題があるからネタは尽きない。第3段階、社会批判ステージである。

一般には視野の拡大もこの辺りで打ち止めかと思う。ただ、この先も無限に問題探しは可能だ。ひとつの現象に繋がる事象は無限なのだから、これは当たり前だ。難しいのは、問題を批判するとき、どの筋の批判が本当に効果的か、だろう。これを真面目に考え出すと、結局はどのステージの批判も実効性は未知数ではないかと思えてくる。「殺人=悪」の価値観のみで、無条件に批判する人がいることも大切だろう。すべての批判者がこれだけではあまりに歪だけれど、こういう人がいないのも問題だと思う。つまり、色々な視点やレベルから批判の声があがることが大切なのかもしれない。

そもそも理に適った批判だけが実効性を持つとは限らない。緻密かつ妥当性の高い批判が空論に終始することもあれば、感情的な批判が功を奏することもあろう。つまり、実効性の点では不十分な批判が無意味だとはいえず、十分な批判が有意義だともいえない。場合によっては、問題の性質や経緯から有効な視野を判断する、つまり議論の前提を議論するという議論以前の議論が必要になるのかもしれない。迂遠ではあるけれど、ここがズレた批判合戦というのは実際よく目にする。もちろん、純粋な論理による批判だけが目的で、問題の改善は視野に入れないというのもひとつの態度である。

とはいえ、有効視野が特定できるほど世界は単純ではないだろうとも思うのである。

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