勝者は実力を主張し、敗者は運だと言い訳する。

世の成功者たちの言葉のなかでも、「継続は力」という教訓は、一般に受け入れられやすいもののひとつだろう。なにしろ、この言葉は凡人に希望を与える。ある成功者はいう。自分は凡人だ、特別な才能を持っているわけではない、ただ自分にできることはこれしかなかった、だから続けてきた、それだけだ。謙虚なのか不遜なのかよくわからない物言いである。要するに、成功の要因がただの運や才能ではなく、継続的な努力やその結果としての実力にあると主張しているのだから、自賛には違いない。多くの人は「これを続けよう」と決心して続けられるほど我慢強くはない。だから何者にもなれないのだ、という理屈にもなる。

けれどもそれは、やらないからできないだけだ、というエクスキューズを与えてもくれる。そこには間違いなく希望がある。が、こんな希望は欺瞞だ。最大限好意的に解釈したとしても、都合のいい思い込みにすぎない。人は信じたいものを信じる、という話の一例でもある。確かに継続は力だろう。けれども、その継続で得られる「力」が自ら望んだ意味での力だとは限らない。ましてや、市場価値のある力なんて相当に限られている。たとえば、毎日ブログを書き続けるうちに人気ブログになり、ついには単著がでたりアフィリエイトやコンサルや講演や執筆活動でメシが食えたりする。確かに、そういう人はいるかもしれない。

あるプロブロガーはいうかもしれない。書き続けることが大事です、ボクは毎日1,000冊の本を読んで1,000本の記事を書き続けてきました、と。ボクはコレで社畜を辞めました、と。そう自らの選択と成功を結び付けて語ってみせるかもしれない。けれども、「毎日書き続ける」は、決して「人気ブログになる」や「メシが食える」の必要十分条件ではない。十分でないのは自明だけれど、実は、必要かどうかさえ怪しい。彼が認められているのは、まったく別のなにかから得られた性質や時流の賜物かもしれない。本人は本気で面白いことをやり続けているつもりが、客にはスベリ芸としてウケている。そういう例も少なくない。

毎日ブログを書いて得られる力が、「文章力」や「企画力」や「ウェブマーケティング力」や「人脈」である可能性はある。けれども、それが「人気ブログ」や「メシの種」にまでなるかというと、かなり疑問だ。そもそも、「どんな無意味な苦行にもめげない地味な忍耐力」だとか「打ってて気持ちよすぎるリズミカルなキータッチ」だとか「自ら灯油をかぶって大炎上しながら踊り狂う芸風」だとか、一般には、とても報われそうにない超能力が身につくだけかもしれない。やろうと決めた努力が、思い描いた「力」に繋がっているのかどうか、事前に知る術はない。実際に成功した人ですら本当のところは知り得ないのである。

継続で成功をおさめた人たちが、その継続を成功の鍵だと主張する。本人に嘘をついているつもりはないかもしれない。けれども、成功の要因なんて検証不可能なものを、実体験によってさも証明されたかのように語る不誠実というのはあろう。たとえ無自覚であっても、だ。注目を浴びるきっかけになったブログ記事はどういう意図で書かれたのか。その記事が注目された本当の理由はなにか。そこに書かれた内容に市場価値があったことと努力との間に、有意な相関関係はあるのか。成功者が自らの成功を語るとき、その背後にあるのは徹底した自己分析であるよりは、本人にとって気持ちのいい後付の物語である可能性が高い。

自分の成功について自分の手柄を主張したい、努力や実力で成功したんだと思いたいし思われたい。それは自然な感情だろうし、自己承認の糧にするのも悪くはない。幸福の種は多い方がいい。人の幸不幸はほとんど「自分についての物語」の出来不出来によるものだろう。だから、成功者たちによる自分語りを特別に非難するつもりはない。一方、いまだ何者にもなれないぼくたちには運という物語が用意されている。自分の性格や嗜好や能力が市場価値に結びつかないのは、いまがそういう時流だからだ。そう信じることに躊躇は要らない。それは少なくとも成功者が実力を主張するのと同程度には、信憑性のある物語なのだから。

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