他人の成功体験が役に立たない理由

実体験を伴うアドバイスも伴わないそれも、さして役に立たない点では五十歩百歩である。

確かに、成功体験は「ノウハウ」を生む。けれども、実のところ「使えるノウハウ」は枝葉でしかない。そして、その「使えるノウハウ」はまったく成功の十分条件ではないし、そもそも必要条件ですらない可能性もある。たとえばそれはIT長者が勧める読書法であったり、ダイエット成功者の食事制限法であったり、東大合格者の有効な時間利用法であったり、ビジネスエリートの情報整理法であったりする。こうした成功法のミソは、「自分にもできそう」なことろにある。そして、成功者の体験の一部をトレスさせることで、成功を掴めるかもしれないと勘違いさせるのである。

何故勘違いかといえば、成功の理由も失敗の理由も所詮は後付けにすぎないからだ。効率的な読書体験が機を得て役に立ち、成功の端緒を掴む。それまで続けていた努力や蓄積した能力が、その端緒を次に繋げる役を果たしみるみる頭角を現す。幅広い社交が功を奏し、ビジネスにおける運命の出会いを果たす。IT長者が完成する。たとえば、そういう成功物語がある。この物語の主人公にとって、これらは成功に繋がったノウハウであり努力であり能力である。けれども、成功に導いたのは決して主人公自身ではない。たまたまそうなっただけである。籤に当たったのと変わりない。

逆にいえば、この主人公にも成功に繋がらなかったノウハウや努力や能力があったはずだ。もの凄く古典哲学に精通し、アメフトチーム采配の素養があって、タガログ語がネイティブ顔負けにもかかわらず、それらは一切成功に貢献していないかもしれない。成功に繋がるものと繋がらないもの。その差異は、たぶん本人にも分からない。成功したのは努力の結果だけれど、その努力が報われたのは巡り合わせでしかない。つまり、ノウハウや努力や能力と成功の因果関係は、成功したという事実があるときその一回きりの事実においてのみ成立する。その意味で再現性は皆無である。

だから、おれは努力をしたから今の地位にあるんだという自負は、半分当たっているけれど半分思い上がっている。古典哲学とアメフト采配とタガログ語が成功に結び付かなかったように、読書法やビジネススキルが成功に結び付かなかないことはあり得る。成功するか否かと努力量の多寡やその有無とは本質的に無関係である。正しい努力をしたとか時代を見る目があったなんて戯言は、報われなかったすべての行動に対するいい訳を考えてから口にすべきである。もちろん、何の行動もしなければ成功を掴む可能性が低くなるということはあろう。籤も引かなきゃ当たらない。

また、当たり籤には偏りがあるかもしれない。であれば、大量の成功体験や失敗体験を事例としてスクラップすることは、成功の可能性を引き上げるかもしれない。ただし、その場合も役に立つのは時代の傾向を読むことであって、個別の体験ではない。また、同時代に同じような分野で似たような境遇の人が成功していると知ることは励みにもなる。個人の成功体験談や、因果関係の不確かな「使えるノウハウ」が、誰かの行動を喚起し成功の連鎖を生むなら、そこには幾許かの意味もあろう。だから、サンプルのひとつとして自ら体験談を公開することは決して悪いことではない。

結局のところ、この種の提言の本質はメンタル面の後押しにある。否、そこにしかない。

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