自分嫌いの人に贈る言葉

「自分なんて面白くない、つまらない、嫌い」という人へ。

自分が面白くて仕方がない。そんな人はそういない。思春期をすぎて大人の階段をのぼって、それでも自分が面白くて仕方がない、なんて人は少しオカシイ。或いは、あえて自分を見ずに生きているんだろう。そういう人生の愉しみ方はあると思う。予測精度の低い人生は賭けの要素が強いけれど、しっかりセルフコントロールできることが最良とも限らない。大抵は自分との付き合いが長くなればなるほど自分がどんな人間か見えてくる。否、見えてくるような気がする。自分自身が常に予想外だとかいう人は、それが意図的でないなら少し格好をつけているか単に馬鹿なんだろう。

要するに自分がツマラナイのは、およそ自分が予測範囲内の存在だからだ。明日も明後日も来週も、たぶん、今日とそれほど変わらない日常を生きていて、その中で起こる事件はこれまでにもあったような出来事の変奏にすぎず、自分がうまくできることとうまくできないこともある程度分かっている。突然、超好みのタイプの異性に出会うことはないだろうし、奇跡的にあったとしてもうまく声を掛けたり仲良くなったりすることはできないだろう。或いは、ネットでライフハックな記事を読んで目から鱗を落としたと思っても、自分はそうそう日常を変え得ないことも知っている。

けれども、本当は、自分を予測することなんてできない。自分が予測できるのは予測できる範囲でしか生きようとしないからだ。大抵の人は安定を目指すものだし、未知と不安はほとんど同義だ。何故なら、未知は自分にとってプラスになるかマイナスになるか分からないことだからだ。プラスの未知は悦びであり、マイナスの未知は恐怖である。恐怖を回避することは、同時に悦びを諦めることでもある。人は不安を嫌い、予測できる程度の小さな未知を選択する。そして、そう大きくは外さない。これは、よりよく生きるために選択された戦術だろう。ただ、足りないものがある。

それは、戦略だ。戦略を持つと、戦術が制限される。それは換言すれば、メタな判断の基準を持つということでもある。たとえば、目の前の人間に声をかけるべきか否かという問題がある。実のところ、人は人に声などかけなくても生きていけるし、かけなければ余計な軋轢や羞恥やその他諸々のマイナス要因を遠ざけることができる。つまり、その場の判断でリスクを最小限にするなら「誰にも声なんてかけない」が正解である。ただ、これは大局的には「人生における人間関係を最小限にとどめる」という戦略を採っていることにもなる。それがもし無意識なら意識すべきだろう。

戦術を優先した結果、ある戦略を選んでしまっているというのは本末転倒である。まず、戦略がある。すると、個々の行動は必ずしも「いつもの自分」にならない。ある日、「今週中に同僚に声をかける」というミッションが発生するかもしれない。それが戦略に欠かせない要素ならやるしかない。自分にとってよりリスクの小さい、そして効果の高い方法でコンタクトを取る必要がある。戦略に則った最良の戦術。それが本当の意味での戦術である。そして、必死で偶然を装ってエレベーターでふたりきりになればいいのである。それはもう、いつもの「面白くない自分」ではない。

畢竟、戦術しかない自分が面白くないのは当然だ。ただし、面白い自分が幸福とも限らない。


【(冒頭だけ)インスパイアされたページ】
T大生の独り言 勉強嫌いの人に贈る言葉1

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