「若いうちの苦労は買ってでもしろ」の本当の効用

それは「苦労は娯楽」だと知ることだと思う。

もちろん、すべての苦労が娯楽たり得るなんていう気はない。心ない両親の元に生まれ落ちたせいで、ネグレクトやら虐待でただ生きるのにも苦労するなんてのは最悪だ。望んでする苦労じゃない。ここでいう苦労は何かを成し遂げるためのものだ。努力といい換えてもいい。ぼくは努力教の信奉者ではないから、苦労や努力が「必要」だとは思わない。したくない人はしなくていいと思う。ただ、同じ漢字をあてても「ラク」と「タノシイ」は全くの別モノだ。ぼくはそう思っている。そして、「タノシイ」ことは大抵「ラク」じゃない。ラクして楽しいことなんて底が知れている。

若い時分から自らゴールを設定し苦労できる人はいい。苦労の才能がある。きっと周囲からも生き生きとして見えているはずだ。まあ、当人は一所懸命ではあっても、それを苦労だとは思っていないかもしれない。が、すべての若者がそうできるわけではない。だったら、お仕着せの苦労でもいい。学園祭の役員なんてやりたくなかったし、やったらやっぱり大変だったけれど、終わってみれば仲間同士妙な連帯感や充実感を共有していた…なんてことは珍しくない。当然、向き不向きはある。不向きな苦労は疲労だけを置いて行く。それも「若いうち」ならさしたる痛手じゃない。

それは仕事でも同じである。やりたい仕事がある人もいればない人もいる。じゃあ、ない人は仕事を楽しめないかというとそんなことはない。始めてしばらく苦労していると、だんだん楽しくなってきたりする。周りを見ていても、責任や権限の重みと楽しさがリンクする人は少なくない。それは大変なことだけれど、やっぱり大変だから楽しいんだと思う。少なくとも、いかにラクをするか、みたいなことばかり考えて働いている人はあまり楽しそうに見えない。ただし、ここでいうラクは「いかに効率的に成果を出すか」と考えて努力することとは似て非なるものだから念のため。

結局のところ、趣味にしろ仕事にしろ人間関係にしろ、労さずに手に入るものほどすぐに飽きる。愉しさゲージが上がらない。その意味で、労力と楽しさはある程度比例する。もちろん、すべての労力が快楽を生むわけではないけれど、すべての快楽には何らかの労力が必要である。苦しむことと楽しむことは必ずしも対立しない。そのことを知らずに生きるのはもったいない。苦しいばかりのことに耐える必要はないけれど、苦しいけれど楽しいという何かに出会えることは幸運である。そういう何かを見付けたなら怠惰に流されてラクをせず、進んで苦労する方がきっと楽しい。

要するに、苦労も努力も「自分のため」にしてナンボである。否、そもそもすべての行為は自分のためにしかならないというべきか。「こんなに苦労しているのに誰も認めてくれない」とか「こんなに努力しているのにちっとも報われない」とかいうような苦労や努力なら無駄だからやめた方がいい。自分のための苦労や努力なら誰に認められずとも、している尻から報われている。その楽しさや生き甲斐や張り合いや充実感こそが最大の報酬である。いつまで経ってもそう思えないなら、それは向いていないということだ。方向転換できるうちにした方がいい。苦労のし甲斐がない。

「苦労」というと言葉は悪いけれど、労力を惜しんで楽しく生きることは難しい。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/574

comment - コメント

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」、という格言の真意は何か。それは、苦労には、限度という条件、または制限がある、ということ。だって、無制限に買えるものじゃない、といえば分かるはずです。逆に言えば、限度を超えた苦労は苦労ではなく、単なる消耗にすぎないと思う。そして、買える?限度は、当然人によって異なる。これが、その格言のオレ流解釈となります。
 もちろん、努力と訓練によって、苦労の許容限度を上げることはできる。この格言も、苦労の許容限度を引き上げるべく努力せよ、と言いたいのだと解釈するなら、一般的な意味とそんなに変わらなくなるかも。
 いずれにしろ、許容範囲内の苦労だからこそ、いつか報われるのであろうし、収穫できるのであろう。では、今の自分の許容範囲はどのくらいなのか。これは、実は、「苦労」してみないと分からない。それが、実は、「苦労」の二重の泣き所なんですよ。

> 多さん
いつも考えさせられるコメントありがとうございます。苦労の限度ですか。確かに、こればっかりは試してみる以外なさそうですね。ぼくとしては極めて楽観的に、楽しくなる前に限界を意識しちゃうようならさっさとやめた方が良いかな、なんて思います。そして、そういう試行錯誤が比較的広範囲で許されるのが「若いうち」なのかな、とも。苦労を限度額一杯まで買ってしまって破綻したんじゃつまらないですよね。まあ、仰るとおり「限度」…ぼく流にいえば、「楽しくなるか苦しいだけなのか見切る臨界点」を察知するのは結構難しいわけで、真面目で我慢強い人ほど限度ギリギリまでやり切って潰れちゃう可能性は高そうな気もしますね…。

いや、違うやろ。笑

欧米版だと
「若いうちに汗を流しなさい、さもなくば老いた時、涙となって流れる出るだろう。」
ってのがあるね。 単に若いうちに努力して勉強するなり、技術を身につけるなりして自分を磨いておかないと、年を取った時リストラされたりして首が回らなくなるよって事じゃないの?

コメントを投稿

エントリー検索