「性格」を語るために必要な2つの視点

性格ではなく具体的な行動を改善せよというのは、なるほど、分かりやすい。

あなたの性格は直らない。直す必要が無い。 - くろいぬの矛盾メモ

そもそも日常使われる「性格」という言葉の定義は曖昧だ。そこで、いわゆる「性格」を大きくふたつの側面に分けて考えてみる。「行動を規定する性格」と「行動から逆算される性格」だ。決して性格がこのふたつに区別できるという意味ではない。まず、これらの視点から「性格」を捉え直してみようという話である。たとえば、デスク周りが汚い、時間にルーズ、連絡が杜撰…という同僚がいたとする。さて、この同僚は「いい加減で怠惰な性格だからこんな行動しか取れない」のか、「こんな行動ばかりとっているからいい加減で杜撰な性格だと評価される」のかどっちだろう。

上のリンク先にある「性格」は、おそらく後者を主に扱っている。たとえば、例示されている「短気な人」は「すぐキレてしまう」から「短気」だと自他に評価されているのであって、「理不尽なことには即座にツッコミが出来る、有能な人間」になったら、もう「短気」な性格だとはいわれないはずだ。きっと自己評価だって変わるだろう。要するに言葉を置き換えているだけで、実は「性格を直した」のとほとんど同義なのである。もちろん、こうした言葉の置き換えが、自分の行動を意識して改善するのに役立つこともあるだろう。だから、全然無効だなんていうつもりはない。

ただ、こうしたライフハック的な観点は、ある面でそうできない人を切り捨てる。たとえば、長年の不幸な体験の積み重ねから、コミュニケーションに臆病な性格に育った人がいる。臆病な性格だからみんなが楽しそうにしている輪に上手く加われない。仲良くしてくれそうな人が近付いてきても最悪のケースを案じて避けてしまう。そんな人に、「性格を変える必要はない、行動を改善せよ」と説いたところで、「いや、性格変えないと行動改善できないから」という話になる。もっと極端な例を挙げるなら、器質的な異常がある場合、自分の意思で行動を変えることは不可能に近い。

要するに、リンク先の提言が意味を持つターゲット層は相当に限られている。そして、おそらく、本当に深刻な問題を抱えている層には届かない。あらゆる意味で性格を「直す必要がない」というつもりなら、行動だって直す必要はないというべきである。少なくとも、キレ易い人には「キレても嫌われない処世術」や、「イライラしないための生活改善法」や、「キレ難くするのに使える市販薬」でも教える方が役に立つだろう。そんな個別的な話ではなくより上位レイヤーの話をしたいというなら、そういう多様性をありのまま受け入れる社会や心のありようをこそ語るべきである。

ただ、それを非現実的な理想主義に堕すことなく語るのは、なかなかに難しい。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/557

comment - コメント

はじめまして。
いつも楽しく拝見させております。

普段読ませていただいて、素直に納得させられる事が多いのですが、今回敢えて素朴な疑問をコメントに残してみたいと考えました。

文末で書かれている通り、理想主義になりがちな議論ではございます。ただ、同時に、変化を起こせない人間を必要以上に擁護する合理的理由も思い浮かびません。

不幸自慢ではありませんが、自分も過去にコミュニケーション能力の不足を自力で解消してきた経緯があります。それゆえ思うのですが、例えば、指導的立場に立った人間が「変化の不可能性」を考慮するのは妥当だとしても、当の本人がそれを当たり前のように思うのではお話にならないように思えてしまいます。キツイ言い方をすると単なる「甘え」でしょうか。

というのも、「極端な」ありのままを受け入れてくれる程世の中は優しくはないという現実もありますので。ありのままを受け入れて貰うという行為は他人に合わせるよりも茨の道だと思っております。

> TJさん
身も蓋もないことをいえば、変わりたい人は変わる努力をすればいいのだし、変わりたくない人や変われない人は変わらずに生きる努力をするしかないんですよね。おそらく、どちらも楽じゃない。また、変わろうとしないことが「甘え」かどうかは、たぶん、問題のレベルによるんでしょう。どうしようもなく「極端な」自分を変えることと、「極端な」自分のまま優しくない世の中を生きること。どちらを現実的と見るかは、なかなかに難しい問題ではないでしょうか。努力でなんともならないレベルの逸脱もあり得るでしょうし、仰る通り、自ら「ありのままを受け入れて貰う」というのも「茨の道」に違いないですしね。本エントリーは引用したエントリーが実は「変える必要がない」といいながら「変えろ」という話なんじゃないの、ということをいいたかっただけで、変えるべきか否かという問題に対しては答えを出せてはいませんが…。

みなさんご存知の各種人格障害とか社会不安障害とか適応障害、行為障害といった「ことば」があります。
純粋な・厳密な専門用語としてその概念や如何に、またその是非は、いま精神医療体制はこれでいいのか、
みたいな話はもちろん手に余るので避けて、
ただ私に言えることとして、不用意な拡散を経た流行語としてのそのことばに拘泥している、あるいは捨て身で弄んでいるひとがたくさんいます。

そういうことばをちりばめて自分の「悩み」を表現してみる人に対しては
「人格/性格は(病気じゃないから)治せない。だが、行為をコントロールしていく努力をすることはできる」
みたいに言うのが、まあ「ウツに頑張れは禁句だよ!」くらいか、人口への膾炙ということでは一枚落ちるほどのレベルで「正解」らしいです。そのように解していました。

でもこれはどうも詭弁のたぐいだな、って、この記事を読んでいて思いました。

TJさんというかた(はじめまして)の出した言葉に文脈を無視して絡む格好に思われたらすみませんが、
「甘え」という言葉は多分出さないほうがいいです。よくある「優しさ」至上主義の観点からの言葉狩りではなくて、
見かけ上アウトプットから逆算して自己改革を成し遂げるというようなアビリティは、たしかにそれ自体ちょっとした才能です。

多分こういうのは(町医者とか周囲の人間含めた)個人レベルの努力でなく社会的な枠組みが必要なのです。
行政のとりくみとかそういう話じゃなくて、…

ある武家の部屋住み、ハナから人生見切ってケチな道楽三昧で日を送る三男坊がいた。流行り病で当主跡取り次男と端から急逝、思いもかけず家長の座とおつとめが降って来た。これはもう、遊冶郎が一朝にしてお堅いさむらいに化けないと仕方がない。
ほか世の中のどこにも、きっちりその座り姿、そのかたちの隙間をおいて髪一本の間もない。否も応もない。
この場合世をガチガチに充填してるのは個人の感情とかおよそ関係ないハードな物体ばかりで、その隙間に身をあわせてしまえば内部応力はゼロになる。
これがもし不定形の「ひとそれぞれ」のなにかが詰まってる間にさあ身をこじ入れようというならば鉄雄の肉に呑まれたカオリみたいにブチュっと…

いや、バカが何を言い出したんだという感じだけど他にどういっていいかわからないので。

性格と呼ぶか行動と呼ぶか、ともかくひと一人が「化ける」には(一夜にして、とは限らないが)
ひとりで、あるいは「ひとり」の集まりによってはダメです。「甘えじゃないのか」「できないことをいうな」そういう個人の感想レベルのせめぎあいをむしろ排したプログラムが組まれなくてはならない。具体性は皆無ですが…

> nさん
たぶん、それほど違わないような辺りに考えを巡らせているんじゃないかと思うので、あえて、ぼくから付け加えることはありません。ぼく自身はこのエントリーを書いたとき、前近代的なムラ社会で「巫女」にされた人やなんかの話を思い浮かべたりもしていたのですが、nさんのたとえ話も面白いですね。完全に余談ですが、『AKIRA』はぼくが本格的にハマったほんとんど唯一のアニメ映画でした。漫画ももちろん好きでしたが。

精神の平衡を欠いた人にとって「巫女」という生き方はひとつの救済でもあると同時に、
まあざっくり言って、生きながらにして「個」を放棄させられることでもあったわけですね。

なるほどパーソナリティに関する議論が社会のありようを最後まで避けて通れるはずはないわけで、
しかしその場合「『中世』の巫女」というような社会・存在をも視野に入れうるメタなスタンスが要求されるのかも知れず、
現行の社会規範をとりあえず絶対としたり「自分らしさ」を絶対にしたりと、思い思いに一点FIXにしてしまうと見事なまでに話はすれ違う、という図式もその手の話には往々にして見て取れるようであり…

「人格障害」関連の啓蒙書とか読んでいて、どうもどこか、脇腹あたりがすうすうしていた死角の部分にうまい刺激を頂いたように思います。

「AKIRA」は当時の僕は子供にありがちな枝葉を衝く減点法で×つけてました。やっぱ宮崎駿のほうがえらいぜ!と。

コメントを投稿

エントリー検索