仕事嫌いを治療するための5つの処方箋

01:仕事嫌いの人と仕事の話をしない

他人のいうことになんて左右されない。そういう人は別にいい。けれども、思いのほか外野の声というのは内面に抜き難い影響を与えるものだ。よく知らないものでも、人は簡単に嫌いになれる。朝鮮や中国が嫌いな人は、必ずしも朝鮮や中国をよく知っているわけではない。同僚に会社の厭なところばかり聞かされていれば、自分の職場にネガティブな感情を植え付けられる公算は高い。或いは、「仕事は辛い、働きたくない」…休みのたびにそんなオーラを出しまくる親に育てられれば、その子が将来働きたくないと思うのは自然すぎるほど自然なことだ。その責任は小さくない。

別に、仕事嫌いの人となんて付き合うな、といいたいわけではない。その人が嫌いなものの話は極力するな、という話である。お金を稼ぐばかりが豊かな人生ではないだろう。無理に仕事の話をすることはないはずだ。その人が嫌いなものではなく好きなものの話をする。その方が楽しいし、自分の知らない楽しさにだって出会えるかもしれない。漫画が好きな人とは漫画の話をすればいいのだし、興味がないならその人から漫画の面白さを発見すればいい。嫌いなものへの呪詛を聞かされるよりはずっと有意義だ。逆にいえば、仕事の話をしたいなら仕事が好きな人とすべきである。

02:仕事を時給換算しない

お金の計算は大切だし、仕事とお金を切り離して考えることはちょっとできない。食うための一番今風なやり方が「お金を稼ぐこと」なんだからこれは仕方がない。けれども、報酬の不満を自分の労力で量るなんて不健康なことはすべきじゃない。思ったほどお金に換わらなかった過去の労力を反芻しても気が滅入るばかりだろう。そんなことをしてもまずやる気は起こらない。十中八九起こらない。どうせ考えるなら、どうしてお金に換わらなかったのか、どんな労力ならお金に換わるのかを考える方がまだいい。そして自分は時間や労力を単価で切り売りしたいのか自問してみる。

とはいえ、あからさまに待遇が酷い職場というのもあると思う。運悪くそういう場所にハマり込んでしまったのなら、なんとか状況を変えるか、そこから抜け出す方法を考えるよりない。ただ、気軽に「搾取」なんて流行の言葉を自らに当て嵌めるのはやめた方がいい。特に根拠のないそれは厄介だ。心を蝕む。しかも「搾取」の物語というのは安手の陰謀論にも似て、大抵の人に当てはめることができる。負のワイルドカード、或いは、ブラックボックスみたいなものである。もちろん、時間や労力を切り売りしたいなら、そういう仕事を選ぶ道だってあってしかるべきだとは思う。

03:仕事という総体ではなく具体的に何が嫌いなのか考える

仕事は嫌なものだという子供の頃からの擦り込みが大人になっても抜けない。実のところ、そういう人は少なくないんじゃないかと思う。子供の頃、自分はどうして仕事は嫌なものだと思っていたのか。それこそ、連日勇者のレベルを上げるために黙々とコントローラーのボタンを押し続けられるような、高度にルーティンワークが得意な子供でさえ「サラリーマンは厭だ」などと思い込んでいたりする。仕事が嫌いだ、とはあまりに具体を欠いている。漠とした不満など解消のしようがない。仕事というのはそれでひとつの行為ではない。もっと具体的な、小さな行為の総体である。

「趣味の労力」と「仕事の労力」の決定的な差は何か。本当に自分が嫌いなものの正体は何なのか。一度は突き詰めて考えてみる価値があると思う。もしかすると、ただ客のひとりが鬱陶しいだけなのかもしれないし、上司とうまくいかないのが憂鬱なだけかもしれない。人付き合いが苦手なだけで仕事が嫌いなわけじゃない。そんな人はいるだろう。或いは、夜更かし癖があって朝起きるのが辛いだけだとか、実は恋人がいないせいで日常が不満で一杯なだけという可能性すらある。それを「仕事嫌い」だと思い込む。いかになんでも大雑把にすぎる。それは「仕事嫌い」ではない。

04:仕事がなければ死ぬまで何をするのか想像する

明日から働かなくていい。食い詰める心配もない。さあ、明日は何をしよう。特に思い付かないからとりあえずしばらくはゆっくりして…なんて思ったならこれは要注意だ。大抵の人が明後日もその次の日も来週も来年も、特にやることなんてなくて「ゆっくり」してしまう。精々、休みの日や退社後や仕事中にやっていたネットやゲームや漫画やテレビの時間をダラダラと拡張するくらいのものだろう。そうなると、それはもう「ゆっくり」という贅沢ではない。否、別に死ぬまでダラダラするのが夢だという人がいても構わない。が、大抵の人はそうじゃなかろうと思うのである。

今、仕事より楽しいことは何か。余暇にやるから楽しい、ということはないか。人間はたとえ食うに困らなくても何もせずに生きることはできない。ならば、自分はその膨大な死ぬまでの時間をどうやって過ごせば幸せなのか。何かがやりたいわけじゃない。ただ、今の仕事が嫌いなだけだ。では、今の仕事から解放されることで嫌いではない毎日がやってくるのか。「働かなくていい」というのは本当に幸福の条件たり得るのか。たとえ仕事から解放されても、やっぱりつまらない毎日がやってくるだけという可能性はないか。そして今、毎日がつまらないのは本当に仕事のせいか。

05:仕事を義務だと思い込まない

広義に捉えるなら、仕事はたぶん、義務ではない。生きている限り勝手にしてしまっているものだろう。人にはそれぞれ役割があって、その役割を果すことで生きている。それは必ずしも「働いて他人からお金を貰う」という形を取るとは限らない。たとえば「子供は遊ぶのが仕事」なのは、今の社会が、或いは、多くの親たちがそれを子供の役割と認めているからにすぎない。一方、毎日毎日遊べという圧力をかけられれば、遊ぶのが嫌になる子供はいるだろう。子供の時間を遊ばずに生き切ることは難しい。そして、「遊び」は誰かに決められた不自由な何かでも、義務でもない。

「遊び」を「仕事」に置き換えても同じだ。思い込みはときに人を縛る。人の中で生きる方法はおそらく無限にある。人間というのは基本的に利己的なものだ。だから、誰かの利己にさえ適えば生きていける公算は大きい。そして本来は、どんな人間でも生きていけるように調整するのが「社会」の役割でもある。それが必ずしもうまく機能していないのは大変遺憾だけれども、少なくとも、今就いている職業が「義務」だなんてことはない。極論すれば、飯を食うのが面倒だといって野垂れ死んだって構わないのである。その自由は常にこの手にあって、誰にも奪うことはできない。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/628

comment - コメント

「搾取」が流行の言葉だなんてなんの冗談?

> ガラスさん
確かに、流行はいいすぎかもですね。格差に絡む話題とともに何かとよく見かけるような気がしていたもので…。特に実証データのある話でもありませんし、ぼくの観測範囲の偏りやら個人的な印象やらが筆を滑らせたものとご理解ください。

コメントを投稿

エントリー検索