狭義の「リア充」幻想から自由になるために

ぼくは「リア充」を、幸福な、目指すべきものだとは少しも考えていない。

ある種のネト充やオタクたちは決して「リア充」にはなれない

それはぼくが「リア充」という言葉をかなり限定的に捉えているせいでもある。たとえば、ぼく自身はネットはリアルだと思っている。が、「リア充」という言葉が想定するリアルは、たぶんネットを含まない。同様に、バイト先の同僚への好意はリアルでも、二次元少女へのそれは違うのだろうし、仕事で認められて自己実現することはリアルでも、ニコニコ動画でちやほやされることはリアルではないのだろう。要するに、ネットジャンキーたちが(自虐的な意味で)妬みの対象とするような「コミュ力を前提とした恋愛や仕事の充実」が「リア充」の本質だとぼくは思っている。

もちろん、こうしたメジャーな「幸福観」に染まれる人は染まればいい。実際に「リア充」に憧れて脱オタし、合コン恋愛セックス三昧の幸せな日々を送れるなら、どんどんやればいいと思う。やり甲斐のある仕事を見つけ、充実したビジネスライフを送ることもひとつの幸せだろう。それを否定するつもりは毛頭ない。ただ、それは「恋愛の充実」や「仕事の充実」がその人を幸せにしているわけではない。「恋愛の充実」や「仕事の充実」が幸せだという価値観を受け入れ、その価値観に沿った自己が実現できたから幸せなのである。そんな限定的な価値観に縛られる必要はない。

リアルをどう捉えるか。充実をどう捉えるか。幸福をどう捉えるか。どれも極めて個人的な問題である。共同幻想に浸かることはできても、実際にそれらを共有することはできない。できないと分かっていて、なお、共同幻想を愉しむことと、相互理解や価値観共有の不可能性に無自覚なまま「リア充」を幸福と信じることはまるで違う。それは、映画をフィクションと認識しながら愉しむか、本気で現実と信じて一喜一憂するか、くらいの違いがある。後者の方がより映画を愉しめるという可能性はある。けれども、フィクションだと知らなきゃ得られない面白さだってあるだろう。

ともあれ、ぼくは狭義の「リア充」になれるかどうかは、完全に運だと思っている。その運に恵まれなかった人までが「リア充」幻想に振り回される必要はない。堂々と自分だけの「リアル」を生きればいい。ネットがリアルでもいい。二次元少女と添い遂げてもいいし、回線を通じてネ申になるのでもいい。決して解り合えないと知りつつも、だからこそ余計に、誰かと何かを分かち合おうとすることは素晴らしい、わずかに重なりあった幻想を大切したい…そうやって不可能性の向こうのコミュニケーションに目覚めて生きるのもいい。それはもう「リア充」とは別の何かだろう。

いずれ、誰かが信じる幸福を信じて不幸になるなんて、あまりにナンセンスだとぼくは思う。

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平板なイメージとしての「リア充」に対して嫉妬するような連中はしかし「自分が満足できることが大事」「人それぞれだろ!」みたいなことは、それはそれで好んで口にしますね。
そこの矛盾を受け入れられないのがルサンチマンというものなのだろうから、私としてはまあ、せせら笑うくらいのことしかできないけども。

自分ばかりが不当に「生き辛い」というような、類型的でありながら同時に各々は孤立している「妬める人びと」というのは、ネットが生んだのか、ネットが助長したのか、もとよりあったものが見えてきただけなのか。多分最後なんでしょうけど、「リアル」で非モテ君とかリスカ子ちゃんみたいなのと会ったことが無いのでよくわからない。

2ちゃんやはてなみたいな基本匿名のネットコミュニティを見てると、なんと、はち切れんばかりに“恨”の充満した社会よ!…みたいな気にもなるんだけど、リア充がどうの空気がどうのグチグチ言ってる奴が、「リアル」では、べつにどうでもいいよ、よそさんのことは…と、シレっと生きてたらなんかいい面の皮ですよね。

> nbさん
このブログでも何度か書いていますが、結局、自分だけで充足することが難しい人が多い以上、他者、それも大多数が共有しているように見える価値観というのは、それなりの重みを持って個人にのしかかってくるものなんだと思います。ありもしない同調圧力に屈するように、その価値観に押しつぶされる人がいるのは残念なことですね。ただ、仰る通り、ネットでのルサンチマン(らしきもの)の発露が、どの程度切実なものなのかは疑問です。酒の席の武勇伝程度の、さして実態を伴わない「語り」にすぎない可能性もあります。
自ら「リア充」なる言葉を生み出したネット廃人やそれに類する人たちが、どの程度その価値観を重視し、或いは、軽視しているのかは分かりません。もしかすると、自虐芸と皮肉が入り混じった、必ずしも自己卑下のためだけの言葉ではなかった可能性はそう低くないんでしょう。たとえば「スイーツ(笑)」に近いようなニュアンスで。いずれにしても、そんな負の側面を多く担っていたはずの「リア充」なんて言葉が、一般化される内に「本当の意味での充実」みたない意味を持つようになってきているのは、これまた皮肉で面白いですねぇ…。

そもそも対象を相対化し空洞化するためのバズワードがいつのまにかリアルな劣等感を刺激するイメージとしてある種リアリティを獲得し一人歩きしつつあるという見方が可能だとしたらまさに皮肉も皮肉ですね。
価値観というよりかむしろ単純な単語・スローガンの行く先知れずの牽引力、みたいなことにもちょっと思いいたします。
そして本気で「ルサンチマン、みたいなもの」の為に殺人さえ辞さないような、その価値観を全身で「生きる」奴というのは日本中で現実に数人しか出てないわけだけど、かといって自虐芸に浸るのはネット限定だよ、というように便利に使い分ける奴も、やっぱりたぶんいないんでしょうね。


本気ではない。本気でないのでもない。さすがにそこまでバカじゃない。でもはっきりバカだ。どうにも論理的でない、そのへんの機微が最近ふっとわかりかけた気がしてまた遠のいていきつつある…
そういえばこれもひとさまをつかまえて申し上げることでもないのではありますが、そういえばと思い出すのは最初に私がこちらのブログをブックマークしたのは加藤の事件のときのメディアの自家撞着を指摘する記事を目に留めて、でした。
はてなというウェッブ空間がディレクトリに慣れた私にはよくわからなくて、この独立ブログが格好の見張り塔、水先案内になるんじゃないかと思ったのだけど、その最初に興味あったところのはてな村にはあっというまに飽きてしまい。―当時は「加藤」と「加藤予備軍」は完全に地続きだと思っていました。今は違います。

> nbさん
ネットとリアル、或いは、ビジネスとプライベート…まあ、なんでもいいわけれですけれども、そういったシーンでの自分の使い分けというのは、まあ、ないとはいえませんよね。実際、ぼく自身、ここで何かを書いている自分と、会社で同僚に対しているときの自分は、何かしら違っているように思えます。けれども、それらは「便利に」使い分けているというよりは、シーンによって出せない自分を抑制したり、出したくない自分を無理に出してみたりして、なんとかその場を凌いでいるだけなんじゃないかという気もします。使い分けているというよりは、シーンが自分を規定している…といったイメージでしょうか。しかも、それらの「境界」は非常に曖昧で、解り易く切り分けられるものでもありませんし。自虐芸に浸る自分というのも、そうした曖昧な自分の一部にすぎないんだとすると、そこだけを取り出してそれがどういったメンタリティのグラデーションに含まれているのか逆算することは難しいですね。それこそ「加藤」のようなものに繋がっている場合もあれば、むしろ「リア充」的なものに繋がっている可能性もあるんでしょう。ネットに現れるキャラクターの信憑性なんてその程度のものじゃないかという気はします。もちろん、詳細且つ広範にサンプルを集めれば、ある程度参考になるような傾向も抽出できるのかもしれませんが…。少なくとも「加藤」的なるもののサンプルは、仰る通り少なすぎて有意な何かをネットから見つけ出すことは難しいように思います。

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