ある種のネト充やオタクたちは決して「リア充」にはなれない

「リア充」という言葉、案外、廃れない。

どころか、じわじわとネト充圏外へと侵攻し始めている気配すらある。それだけインターネットが一般的になったということだろう。それにしても、リアルで充実とはややこしい概念だと思う。何しろ現実を真摯に見つめれば見つめるほど、大抵、充実からは遠ざかってしまう。現実とは本来、身も蓋もないものだ。だから、充実の多くは夢や幻想や妄想に担保される。コンパやサークルの虚構性など今さらいうまでもない。そこにある人間関係も性関係も、所詮は個々人が抱く幻想同士の部分的な重なりにすぎない。解り合うことはおろか、認め合うことすらほとんどできはしない。

金持ちになることにも、異性にモテることにも、長生きすることにも、教祖になることにもさしたる意味はない。すべては等しく無意味である。一方で、巨乳を見れば揉みしだきたい衝動に駆られ、木陰で放尿する幼女の姿に興奮する。満たされぬ欲望はどこまでも尽きることがないように思える。幼くして全能感を打ち砕かれ、若くして生きる意味に思いを馳せてしまうような人ほど、そんな絶望的な虚無感と限りない欲望との間で苦しむことになる。そして、悟るのである。生きることに意味なんてない。ただ、欲求があるだけだ。意味みたいなものは、つまるところ幻想である。

価値というのはそこにあるものではない。信じるものだ。「リア充」になるには、まず、世間に流布するお手軽な価値を信じられなければならない。コンパにたくさん参加することは楽しい。異性とたくさん付き合ってセックスすることはすばらしい。やり甲斐を感じられる仕事に巡り合うことは幸せだ。頑張った分だけ報酬が貰える社会は正しい。他人を幸せにできる人生こそ有意義というべきだ。誰かと理解し合える歓びは至上である。そんな共同幻想を「リアル」なものとして無邪気に信じられる人でなければ「リア充」にはなれない。「リア充」は夢想家でなければならない。

世代的な差異はあるかもしれないけれど、ネト充やオタクと呼ばれる人たちはそうした意味での夢想を、望むと望まざるとに関わらず、砕かれてしまった人が多いように思う。コンパはお約束の中で演じられる茶番にすぎず、セックスは不完全なコミュニケーションの試みにすぎず、仕事のやり甲斐はただ自分のためのものでしかあり得ず、社会的に価値ある努力ができるかどうかは運でしかなく、他人を幸せにできたかどうか検証する術はなく、人は決して解り合えない。…そんな現実を突きつけられる。リアリストになる。一度見てしまった現実を知らなかったことにはできない。

すでに自覚的な妄想家が、天然モノの夢想家である「リア充」になれる道理はない。

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そりゃそうですな。

天然さんたちは疑問を抱かない。

いや、疑問を抱く必要がないのでしょうね。

そうした人々の世界を前に貴方は何をされてますか?

私は、「自覚的で妄想家ではない人」であると考えてます。

つまりそんな世界でその人たちと同じように生きるつもりはなく、

近い未来に出家する覚悟です。

今は執行猶予を楽しみつつ、少し心にためらいがあるような状態です。

でも、その前に自分と似たような立場の人がどうしているか興味があります。


この真剣な問いに真剣に答えて頂けたら幸いです。

> しぇばさん
自分で書いておきながら何をと思われるかもしれませんが、実のところ「そうした人々」というのは、元々「リア充」という言葉を使う人たちが自分を相対化する存在として生み出した「概念」にすぎないのではないか、という疑念がぼくにはあります。そういう意味での「天然」さんというのは、思いのほか特殊な事例なのではないか、と。もちろん、現実に対する理解の深度や方向性には、相当な個人差があると思います。ただ、自分の周囲にある現実のありようとそれに対する自分というものをどんなに「自覚」したと思っても、その「自覚」のありよう自体があまりに不確かなものでしかない。つまり、ぼくの今の「自覚」なんてものは、せいぜい「今できる程度の自覚」でしかないんだろうと思うわけです。だとすれば、いかに「自覚」を繰り返そうが出家しようが、自分が「そうした人々の世界」の一員ではないと確信することは決してできないんじゃないか。ぼくはそんな風に考えているのです。結局、少なくともぼくには「解脱」的な救いを得ることは不可能ということですね。だから、ぼくはただ、他者に自分を投影しながら不毛な「自覚」を繰り返し生きていくしないと半ば諦めつつ、そんな不毛をどこかで愉しんでもいるのです。

はじめまして。

どうして、あなたの考えるリアルの充実って、そんなにすばらしいものなんですか?
私は2年ほど前からネットと離れ、大学で勉強に、制作に、生活に打ち込む日々を続けていますから、ネットで言われるところのリア充になるのでしょうが、あなたが言うリア充の定義のような、そんな幸せを感じるのは、ほんの一瞬に過ぎないと思います。
いつも、苦しかったり、つらかったりです。
一ヶ月前までは、光すら見えない状況の中、もがき苦しんでいました。
今は、やっと身体が求めるような生き方が見えてきて、少し楽になりましたが。

それと、なんだか頭や言葉で考える幸せや不幸せ、充実、非充実が多い気がします。
もっと身体でリアルというものを判断しても良いんじゃないでしょうか(セックスとかそういう意味ではなく)。

> かげうらさん
「リア充」というものを文中ではあまり明確に定義していませんが、そもそもがこれは、充実していない自分との対立概念として自虐的に作られた言葉だ、というのがぼくの大まかな認識です。つまり、「リア充」というものが現実に存在するかどうかに関わらず、元々「自分とは違ってリアルが充実している人たち」という「頭で考えた」人間像を指す言葉なんじゃないか、と。であれば、言葉の成り立ちからして、「それほどすばらしくないリア充」というのは語義矛盾ということになります。なので、ここに書いた例示はすべて誰かが考えそうなステレオタイプにすぎませんし、これらがぼくにとっての幸不幸を表すかといわれるとそんなことはありません。その上で、リア充の成立条件とは何かを極めて短絡的に考えるとこうなる、というのがこのエントリーの内容です。とても卑怯ないい方かもしれませんが、ぼく自身は文中の「ネト充やオタク」の考えにも「リア充」の考えにも、特にくみするものではありません。

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