三次元ヌードの否定は自己否定への道

まず、この話には仮定が必要だ。

三次元ヌードへの拒否反応 - Ohnoblog 2

生身のヌードモデルを描く授業で退室した生徒たちが、本当にリアルなヌードの生々しさに気分を悪くしたのかどうかは分からない。アニメ絵と比べて美しくない!とか思ったという保証もない。うわー、あんな女の裸とかダルくて描いてらんねー、おれ(あたし)は、萌え~、なアニメ絵が描きたくて勉強しにきてんだって…とかいうのが本心だった可能性は否定できない。けれども、ここで幾人かの生徒の心情を推し量ることなんてできない。だから、リンク先の「二次元と三次元の情報落差が原因だ」という仮説を真と仮定する。すると、なかなかに深刻な問題が持ち上がってくる。

美醜というのは、たぶん、文化的な要素と個人的嗜好の合わせ技で決まる。そして、文化と個人的嗜好は相互に影響し合っている。やまぴーカコイイ!とか、エビちゃんカワイイ!とかいうのは、全世界全時代共通の感覚なんかでは全然ない。いずれ、外部的な評価軸を意識的無意識的によらず採用しているということは、美醜の感覚は「学習されるもの」と考えるのが妥当だろう。つまり、アニメの萌えキャラを美の記号、或いは、理想的なエロスの記号として学習し尽した結果、生身の身体を醜と見做す感性ができあがる可能性は低くない。これは結構深刻な気がする。

一般に想起される萌え絵というのは、実際の人体との解離が激しい。省略とデフォルメによって、徹底的に記号化された絵といってもいい。そうしたキャラクターをたとえば、犬猫やピカチューを愛でる感覚で見ているのであれば害は少ない。それは明らかに生身の人間の身体とは別のものとして愛しているからだ。辛いのは、あの人間離れした萌えキャラの容姿を、人間の理想と見る傾向が生まれたときだ。これは、およそ人外のモノを理想的人間としているわけで、「ぼくの彼女がジャンガリアンハムスターだったらなぁ…」というのと同じくらい絶望的な状況である。

また、こうした美醜感覚は、自分という避けようのない身体を肯定できなくなる点でより深刻だ。まだ授業のヌードモデルを拒絶するくらいはいい。けれども、自身の身体という醜悪なるものに気付いたとき、これから逃れる術はない。最も身近にある醜悪なるもの。それは自分自身である。オナニーひとつするのも一苦労だろう。これほど醜悪なる自分の肉体を意識させられる瞬間はない。そんな自分を愛するには大いなる欺瞞が必要になるだろう。強力な自己否定を無意識下に押し込めた自己愛というのは辛い。健全な自己愛を得られないと他者への愛も育ちにくくなる。

作られた表層的な美意識から自由になること…まずはここからではないかと思う。


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高校生がヌードクロッキーをする時の気持ちについて - ハックルベリーに会いに行く
#ヌードよりむしろ場の雰囲気でヘトヘトになったという人の体験談

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comment - コメント

わたしとしてはその仮説自体の途方もないフィクション性が気になってなりません。
建築専門学校で、叩き大工としての将来しかイメージしてない子や、逆にアーティストワナビーすぎる子が、しんどいトレース課題提出できないのとまったく同じじゃないかと。
それはただ彼らにとって必須な修練だと思えないからそうなのであって、それを「現代っ子は根気がない」の類の、わかりやすすぎる図式で切り取る行為には何の意味もない。

誰でも知るとおりデッサンとはまず見る訓練であって、別段写真っぽい絵を描く練習ではありませんが、少なくとも職業訓練校のカリキュラム中で、ひいては記号化されたアニメ絵の分野で使い得るのは、その矮小化された部分でしかないことを生徒は重々承知している。
だからしんどいエクササイズには根気が保たない、ただそれだけの散文的光景。オカルトをもって説明する必要はどこにもない。

そのように萌え絵・オタカルチャーが各芸術分野の技術的つまみぐいによって成るのと同じく…
「二次元オタク」が何か一般からは異質なセクシュアリティを獲得しつつあるかのような見方は、それがただ図式的でありすぎるが故に決して首肯できません。
それが件の仮説に立った上での検討であっても、です。

もともと人間の性欲のありかたとして、それは基本的にイメージの領域のものですね。
ある要素を抽出してデフォルメしたり、きたないはきれい…という意味的反転もお手の物。
アニメ絵へ向かう性欲なんて、そのもとより奇妙な人間の性欲のありかたの貧相な一例でしかない。

例によってまた大の大人が集まって言葉遊びか!と…私ははてな村の貧しさに苛立ちます。

ちょっと捕捉…
「はてな村」への個人的愚痴で焦点がずれました。
私が主張しているのは、「二次元」と「三次元」の乖離から生じる抑圧なんて、あるわけないよ。ということです。
それは原因と結果を取り違えた、例のスプラッタゲームやロリコンアニメ犯罪原因論のバリエーションにすぎないのではないですか。

> nbさん
リンク先の話が、知人のヌードモデルが教員に聞き込んできた談話、というほとんど伝言ゲームみたいな話で、仰る通り、これを「真と仮定する」なんていうのは些か乱暴だったかもしれません。実際、技術的に修得し易い上にマーケットのある程度安定した萌え界隈で働こうというような子たちは、リアリストである可能性の方が高いかもしれませんね。むしろ、そういう商業的に定型化された「性欲のありかたの貧相な一例」に耽溺するばかりで、自己否定の塊になっているようなタイプの受け手専門の人たちの方が危ないようにも思います。nbさんは、そんなヤツはいないって、と仰るかもしれませんが。まあ、ぼくとしては、件の生徒は案外したたかに生きてるとしても、こういう生き辛い二次元嗜好の人がいないとも限らないかなぁくらいには思っていたりします。で、そんな貧相なオカズだけに固執しててもいいことないよ、人生損するよ、と。いつものお節介ですね。
もちろん、たとえば最近の若い人たちがあまりセックスをしたがらなかったり、生身の女じゃ勃たねぇよなんて男がいたり、セックスよりオナニーだねって人がいたり、うまく異性と付き合えない人がいたりというような個別的な現象にオタク的な傾向を勝手に幻視して、アニメのせいだのゲームのせいだのと自分の嫌いなものを犯人に仕立てて説明しようとするのはダメすぎると思いますが。

いまふと思い出したのですが、この見方の違いはちょうどそのまま、以前ありましたね。
【2次オタ=性的嗜好を先鋭化する人たち】
「二次元」への耽溺行動を、自閉に向かうプロセスの実体として捉えるlylycoさんの記事と、それは無力感の表面的な結果に過ぎないと考える、わたしの寄せたコメント。

つまりわたしの考えではあくまでも、すでにして煮詰まった無力感のひとつの軽薄な表現として二次元対三次元みたいな図式が語られるのであり、それを真に受け、そこから立論するのは露骨な「ためにする」議論、タコツボ内言論だろう…というのが私のイライラの実体であると、おかげさまで整理がつきました。
以後その手の愚痴をこちらに漏らすのは控えるよう、自戒したいと思います。

> nbさん
nbさんの仰る内容を考えていて、ぼくも自分のいいたいことがより整理されてきたように思います。まず、仰るような「煮詰まった無力感」⇒「表層的な二次元への耽溺(或いは三次元の否定)」という流れは、前提として説得力がありますし、ぼくもおおよそそんなところなんだろうなぁと思ってもいます。で、今回、ぼくが想定している懸念というのは、その先のフィードバックループみたいなものなんですよね。「煮詰まった無力感」⇒「表層的な二次元への耽溺(或いは三次元の否定)」⇒「より深刻な現実からの乖離(或いは過剰防衛的な自我の肥大化)」⇒以下ループ…というような流れは起こり得るかもしれないなぁという話です。相関関係というのは、簡単に因果に分解できない場合が多いというか、むしろ、因と果が相互に影響し合うようなこともあるかなぁという考えですね。
ちなみに、ここはせいぜい気楽な個人ブログですし、あまり堅苦しく考えずにコメントしていただいて構いませんよ。基本的にはぼく主観でよほど酷いもの以外、異論反論批判愚痴感想取り混ぜて大歓迎という姿勢なので。それにコメントやトラックバックは、よほど無関係なスパムじゃない限り、書いた内容を再確認するきっかけにもなりますし。

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