白い目で見られるような趣味のひとつくらいあっていい

開放感のあるオタク世界とはどんなものだろう。

オタク世界の閉塞感 - ヲタと非ヲタの狭間にて

過去に一度だけコミケに行ったことがある。ああいうものは、閉塞していることが正しい。そう思った。別に否定的にいうのではない。それは参加している当人たちだって分かっているはずだ。たとえば、路上でイラストや詩やデザインを売る人たちがいる。グル~ミ~の森チャックなんかも路上から出てきた人だ。彼らと同人の違いは明白だろう。同人作品は、最初から同人やそれに類する趣味の人たちに向けてのみ創作される。同好の士が集団を成し、その中で創作と消費が完結する世界。それが同人界である。特定の趣味嗜好を想定しない同人などまったく語義に反する。

ただ、閉塞していることと不当に貶められることは同じではない。リンク先に書かれている閉塞感というのは、単に同人世界が閉じているという意味ではないのかもしれない。不当に貶められているという意識が同人たちを萎縮させている。そういうことなのかもしれない。率直にいうと、同人にはどうしてもエロのイメージが強くある。これは嗜好が細分化し先鋭化するほど、周囲からはキモがられる可能性が高い。そもそもエログロナンセンスの世界とはそういうものだ。カツオがナカジマ君に陵辱される漫画を楽しめる人というのは、たぶんそう多くはないだろう。

結局のところ同人というのは、(大多数には理解されないかもしれない)ニッチな嗜好を満足させるための創作及び消費者集団なのである。特に性的嗜好というのは極めて個人的なものだ。だから、近い嗜好を持った集団というのは貴重である。ここで問題になるのは、他人の理解を超えた性的嗜好である。性的興奮というのは理性を失うほどに高まるものだ。理性を失わせるような常軌の逸し方というのは、冷静な目で見れば不快である可能性が高い。ベタにいうなら、異性の脱糞シーンに興奮できない人にとって、スカトロ描写なんかは不快以外の何ものでもない。

同人が何故赤字を出してまで創作に勤しむのか。理由はもちろん様々だろう。けれども、大枠としては、自分の嗜好を満足させること、共感してくれる人たちに認められること、といった辺りがモチベーションになっているんじゃないだろうか。そして、先鋭化した嗜好に合わせれば合わせるほど、期待に応えれば応えるほど、外部からはキモい集団だと思われる。キモいほど気持ちいいのだから仕方がない。性的な部分を抜きにしても、突出した嗜好というのは理解しがたいものだ。逆に、一般にメジャーな嗜好なんてものは、たいした快楽を与えてはくれないだろう。

つまり同人活動で得られる快楽というのは、そもそも閉塞していないと成り立たない快楽なのである。アオカンが当たり前の世界では野外露出が変態性欲の燃料にならないのと同じことだ。それは、不特定多数の無関心に晒される路上アーティストのそれとは根本的に別種の創作活動である。また、オタクだからその他大勢に認められないのではない。その他大勢に認められない嗜好の持ち主のことをオタクというのである。世間に奇異の目で見られてこそのオタクなのだ。ただし、そうした嗜好によって人格を否定するような短絡的人間は非難されてしかるべきである。

自分の嗜好を余さず知られるというのは恥ずかしいものだ。気心の知れた仲間内でなら構わないし、匿名の海の中でなら平気かもしれない。けれども、自分が思わず興奮して保存したパンチラ画像や、つい買ってしまったアイドル写真集を堂々と公表しようとは思わない。誰にどんな自分を見せるかはある程度自分でコントロールしようと思うのが普通だろう。だから、隠れオタクがコソコソと趣味に走るのは全然オカシイことじゃないし、無理に堂々とする必要もないとぼくは思う。ひっそりと淫靡な趣味があることは、ぼくにとっては人生の彩であって苦悩ではない。

誰にだって、バレたら後ろ指をささせるような趣味のひとつくらいあっていい。

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