生まれそこなった新世代としてのオタク

自信のアウトソースは服オタの専売でも、近年の傾向でも、たぶん、ない。

服オタが、贔屓のブランドが叩かれて必死になる理由 - シロクマの屑籠(汎適所属)

リンク先で指摘されている「自信の喪失⇒自己否定」という流れをみて、ぼくが最初に感じたのは奇妙な懐かしさだった。この手のアイデンティティクライシスの物語には見覚えがある。それはたとえば、こんな物語だ。その青年は有名一流大学を出て、有名一流企業に就職することを至上目標としていた。弛まぬ努力は実り、目標は叶う。彼にとって、「その企業にいる自分」がすべてである。自覚の有無に関わらず、だ。この場合、服オタにとっての贔屓ブランドは、学歴や所属企業に置き換えられる。しかも、時間をかけて手に入れた分、より取り返しのつかないものとして。

そういう感覚は、おそらく、その辺にごく普通にあった。価値観が多様化したといわれる現在でさえ、完全になくなったとは思えない。もちろん、同じような道を歩んだ人すべてがそうだといっているのではない。問題は、その道を全体重をかけてきた人たちだ。それこそ、自己のアイデンティティと同一化せんとばかりに。エリートである自分をアイデンティティとしてきた人にとって、エリートであることの価値を否定されることは恐怖だろう。本来、人間はより総体的な価値で語られるべきのものだと思う。けれども、エリートであるという自分以外をの本人が認めないのである。

ある属性への帰属意識が強いほど、それを否定するものに対して過剰に反応する。或いは無視する。とても自然な感情だろう。オタクかどうかとは関係ない。その対象は学校や会社ばかりでなく、家柄だったり、国だったり、宗教だったり、思想信条だったりするんだろう。そうした何ものかへの過剰な傾倒に対して、ぼくなんかは相当に前時代的なイメージを持っている。むしろ、そうした帰属意識を失くし、まるで自信を分散投資でもするかのように、より個人的な経験なり知識なりにアイデンティティを見出そうと四苦八苦してきたのが、近年のぼくたちなんじゃないだろうか。

オタクはそうした現代人の先端にある現象だ。そういう見方がされたこともあったように思う。今もあるのかもしれない。多様化した価値観の中で、旧世代の感覚ではアイデンティティの拠り所となり得なかったものへの傾倒が可能になった。そのひとつの帰結が、リンク先に例示されるような服オタなんだとすると、それは旧世代的な帰属意識のお手軽な矮小化、或いは、縮小再生産にすぎないということになる。時代の先端なんて呼べるようなものではない。おそらく、本来新世代的なものの理想として語られるべきは、「自分だけの価値」に安住できる精神性だったはずである。

その意味で、オタクという新世代の誕生は失敗に終わろうとしているのかもしれない。

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