オタクとギークの違いの別な見方

結局のところ、消費され尽くした世界は緩やかに死んでいくのだろう。

404 Blog Not Found:オタクとギークの違い - 書評 - オタクはすでに死んでいる」で、小飼弾氏は書いている。「『オタク』は、趣味。『ギーク』は、人生。」…ずいぶんと詩的な表現だ。そしてこう続く。「それが、『需要』の差となっても現れる。」と。テレビもHDDレコーダーもiPodも家庭におけるパソコンも女子中高生の必需品たるケータイも、これらはすべて「趣味産業」に含まれる需要だろう。もっというなら、一般消費者向けの商品というのは、多く趣味的な要素を含む。インテリア、グルメ、旅行などなど趣味と実用は案外に分け難い。

いい方を変えてみる。パソコンやケータイは仕事にも使える。それは鉛筆が落書きにも仕事にも使えるのと同じである。つまり、ものによって趣味とそれ以外に分けるのは難しい。だから、ダンコーガイのいう趣味産業というのは、エンドユーザーがほとんどコンシューマーに限られる産業というほどの意味なのかもしれない。ならばiPodはオタク、パソコンはギークということになる。日本経済で数兆円のオーダーというのが、どこまでを想定しているのかは不明である。或いはぼくが無知なだけで「趣味産業」には明確な定義があるのかもしれない。

ところで、ギークというのは一般にできる技術系オタクを指す言葉だと思う。そして、それは大抵プログラマーのことだ。ありていにいえば、優れたプログラマーということになる。今、コンピューターは確かに世に溢れている。自動水洗の便所だってコンピューターで動いている。炊事洗濯の類も多くをコンピューターに頼っている。農業にも漁業にもIT技術の成果は活かされているんだと思う。その意味で全産業にギークの手が入っているというのも、そう大袈裟な表現ではないだろう。むろん、プログラムが稲を育てたり魚を獲ったりするわけではない。

はてなをはじめとするコアなWebサービスの多くは、こうしたギークたちの言説に溢れている。そこはギークという言葉が何の説明もなしに通じる世間である。世界ではない、世間だ。けれども、ぼくの周りの非業界人はまずはてなを知らない。そして、ギークなんて言葉も知らない。彼らは無知なのではない。負け組みでもない。はてなもギークもそれだけマイナーな存在なのである。ところが、あそこを覗き見していると、世界がまるでITを中心に動いているような錯覚に陥りそうになる。それほどに、ギークやそれに準ずる人たちは「世界」を語るのである。

それはGoogleが生み出した共同幻想なんだとぼくは思っている。彼らは情報と経済の分野で空前の成果をあげてきた。けれども、それは世界の極々一部の出来事でしかない。世界はほどほどに複雑だ。小飼弾氏は凄い人だけれど、Perl?Jcode.pm?ナニソレという世間も当然ある。ポイントはここだ。オタクなら週に1度もパソコンを使わないぼくの母親でも知っている。これがオタクとギークの決定的な違いだ。ギークは余りにもマイナーだ。だからこそパイがある。オタク界のパイは食い尽くされてしまった。ギークが死なないのはマイナーだからである。

オタクの性質が陳腐化したように、いつかはギークの性質も陳腐化するだろう。そのときがギークの死ぬときである。いつかコードは人が考えて書くものではなくなるかもしれないし、イノベーションはドラッグアンドドロップで起こせるようになるかもしれない。そのとき必要なのはストリクトなコードを書けることではなく、何を作るべきかを考えられる力である。もちろん、一流のギークは何を作るべきか知っている場合も多い。ただ、技術をもたない人間との競争に晒されることもまたない。マイナーであることは特権的だということでもある。

オタクは世界に開かれた。一方、IT界隈は未だ世界に対して閉じた世間なのである。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/301

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索