恋愛には確実に向き不向きがある

バレンタインの日にあえて記す。──ぼくは決定的に恋愛が苦手だ。

理由は簡単である。恋愛はあらゆる自己嫌悪の源泉だからである。恋愛らしきものをしているとき、ぼくは自分を醜いと思わない日はない。いや、完全に舞い上がって「オレ超ハッピー!」って瞬間はある。むしろ、それが問題なのである。そんな自分を次の瞬間自覚して厭な汗をかく。気が滅入る。たとえば誰かを好きになったとき、その誰かと仲良くなる過程は異常に愉快である。けれども、同時に自分がいかに姑息で打算的な人間かを思い知らされる。ぼくは自分が相手を気持ちよくさせるとき、それは自分が気持ちよくなりたいためだと知っている。極めて不愉快な自覚である。

青春時代のぼくにとって言葉といえば活字が中心だった。完全に話し言葉を蔑ろにして生きていた。日常会話が半文語体になるくらい軽妙さに欠ける人間だったのである。気のおけない友人たちはそんなぼくでも「少し変わっているが結構賢いやつだ」くらいの好意的な目で見てくれていたと思う。そして、ぼくはそのキャラクターに安住してもいた。にもかかわらず、だ。ぼくはそんなコミュニケーション不全者でありながらモテたかった。長じるにつれ何でもない会話への耐性も身に付き、最小限の相槌と合いの手で何気ないコミュニケーションを維持できる程度には器用になった。

ある程度ソツなく人と話せるようになれば、いわゆる彼女みたいなものは作れる。けれども、ここでもまた考えるのである。自分は結局のところセックスがしたいとか、相手の好意を独占したいとか、交際相手のいる自分でありたいとか、そういった諸々の下心のために、その人を友人ではなく恋人にしようとしているのではないか。この焦がれるような相手に対する欲は、所有欲や肉欲の類でしかないのではないか。実際、大学生くらいのぼくは「付き合う」という形が整った途端にその交際がどうでもよくなることが少なくなかった。そんなときは、セックスさえせずに破綻した。

結局のところ、ぼくは自分のためにしか生きられないのだと、いまは開き直っている。たとえば、自己嫌悪を繰り返しながら恋した誰かを袖にする。ぼくはその苦渋の選択を前に涙するかもしれない。けれども、それは人を傷つけることを負担に思う自分の苦しみの故であって、肝心の相手とは何の関係もない涙である。袖にするのも結局は自分の恋愛に懐疑的なせいなのだから当然といえば当然だろう。あまつさえ、苦しむ自分を免罪符にして身勝手な別れを納得しようなどとは、あまりの姑息さに我ながら呆れる果てる。こんな人間に恋愛なんてできる道理がない。論外である。

こんな風にすぐさま自分の下心を探り当ててしまうような歪んだ人間に、恋愛みたいなものはトコトン向かない。ぼくはぼくに対して誰よりも懐疑的である。それは結局、自分ばかり見ている証拠でもある。それだけ自己愛が強いのだろう。自己愛が強すぎるせいか、ときに勝手な自己投影を暴走させたりもする。すると、恋愛中の自分を醜く感じるのと同じように、自分に恋してくれている相手までが醜く感じられてくる。相手の言葉までが自分の言葉がそうであるように打算的に聞こえてくる。いかにも病的である。或いは、コミュニケーション不全期の後遺症なのかもしれない。

が、こんな人間でも友人や恋人になってやろうという人がいる。実に奇怪なことである。

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