友人と恋人の境界問題から人間関係のカテゴライズを考える

最初に断っておくけれど、こんなことは実に瑣末な問題にすぎない。

取り敢えず「男友達」カテゴリに入れるのをやめる

リンク先の彼女の一方的な報告だけでふたりの関係や男の心情を妄想するのは屋上屋を架すようなものなのでやめておく。気になるのは、件の彼女が件の男を「友達」ではなく「男友達」とカテゴライズしたという事実である。ぼくのメーラーのカテゴリに「友人」はあったけれど、「女友達」や「男友達」というのはない。今は「友人」すらない。相手に性欲を覚えるかどうかとか、恋人候補足り得るかどうかとかいう話と、現状友人関係であるという事実に強い相関関係はない。複数の友人がいれば各々への思いは異なる。大雑把にいえば「好き」というくらいの共通点しかない。

そもそも、相手に対する興味のありようが現在の人間関係を決定しているわけではない。話が面白いから好き、一緒にいると和むから好き、性欲を掻き立てられるプロポーションが好き、いつも自分の話を聞いてくれるから好き、理知的な雰囲気が好き…などなど、相手に対する興味ありようをすべてカテゴライズすることは不可能だし意味もない。魅力がひとつとも限らないし濃淡もあろう。もちろん、今の相手への興味のありようが将来の関係に影響を及ぼすことはあるかもしれない。「友人」を「恋人」とカテゴライズし直したり、リストから消したりすることもあるだろう。

要するに、ぼくは関係性のカテゴライズを相互認識ベースにしていた。「友人」リストには、相手もぼくのことを友人と思ってくれてるだろうなと判断した人を入れていた。こちらが相手のことを恋愛対象と見做していても、相手が友人のつもりだろうと判断したら「友人」だ。もちろん、相手の気持ちに保証などないけれど、それでいい。何故こんな個人的なこと書いたかといえば、それはカテゴライズの仕方自体に人間関係に対するその人のスタンスが見えるかもしれないと思ったからだ。ぼくがカテゴライズを止めたのはすべての関係は流動的で曖昧だとする認識の表れである。

さて、件の彼女は「男友達」というカテゴリを持っている。少なくとも性別を意識したカテゴライズではあろう。「女友達」というカテゴリがあるのかどうかも興味深い。いずれ「男友達と女友達は別」と認識しているわけである。それを何故か、と問うのは野暮だろう。内面的にしろ対外的にしろ性別が意味を持つシーンは色々と考えられる。性別によらず「リアル」「ネット」「飲み友」「ヲタ友」「同僚」などなど、関係性のカテゴライズは色々と考えられる。そのリストを見れば、その人がどういった観点で人間関係を把握しているかがボンヤリと見えくるのではないか。

これは無意識的なものほど面白い。「リアル」と「ネット」を無意識に分けている人は、インターネットを介さず知り合った知人とインターネットを介して知り合った知人は別だと感じているんだろう。合コンで知り合った異性と、友人の紹介で知り合った異性と、本屋で偶然同じ本に手を伸ばした異性は全部別、なんて感覚の人もいるかもしれない。どんな知り合い方だろうが同性だろうが異性だろうがみんな同じという人もいるだろう。セックスしたら「セフレ」という人、セックスしたら「恋人」という人、セックスしても「友人」は「友人」という人…エトセトラエトセトラ。

境界が恣意的なのは何も友人と恋人に限った話ではない。カテゴリは自意識の反映だろう。

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