「本当に好き」のジレンマ

いつだって、恋愛の敵は「可能性」である。

彼女ができた
はてなブックマーク - 利己的な恋愛はオタクや非コミュの専売ではない

ひとつ目のリンク先は、非モテだったらしい匿名氏が努力して交友関係を広げ、その中の女性のひとりに告白されたという話である。喜びながらも戸惑う匿名氏は書いている。「そもそも俺あの人のこと好きなのか?」。呼び出されて、ドキドキして、告白されて、ドキドキして、「全然なんにも分からないまま、息苦しさだけ止まらない。」という匿名氏は、傍目にはどう見ても恋をしている。どんなに女日照りが続いた心でも、どんな女性にでもドキドキできるわけじゃない。けれども、告白初体験の匿名氏は、自分の気持ちに確信が持てないでいる。「本当に好きなのか?」と。

ふたつ目のリンク先は、昨日ぼくが書いたエントリーについたはてブだ。その中でregicatさんはこう書いている。「『オタク趣味を受け入れてくれそうな唯一の女が自分だったから』という理由が嫌なのは、『選択の余地があったらお前なんか選ばねえよ』ってメッセージを読み取ってしまうからでは。」と。いくつかスターが付いているところを見ると、このコメントに共感する人はある程度いるんだろう。これは先の匿名氏とは方向が逆なだけで、やっぱり「本当に好きなのか?」の問題である。ここでは、相手は自分のことが「本当に好き」なわけじゃないという疑念である。

以前も書いたように思うけれど、人が人を好きになるというのは要するに属性萌えみたいなものである。ただ、ひとりの人間の中に見出される属性はほとんど無限に多様である。萌えられる属性もあれば興醒めな属性もあろう。好きになるということは、その時点で認識している属性の総体としてのその人を気に入るということである。グっとくるポイントはもちろん人それぞれだ。どの属性に特に惹かれるかによって、その人の「好き」の誠実度が計れるわけではない。たとえば「君の優しさが好き」が「君の巨乳が好き」より誠実だとは限らない。そして「君の」は飾りではない。

付き合いの浅い内は、認識できている相手の属性がまだまだ少ない。ルックスやそれまで見聞きした言動から、自分の意識に届いた属性だけが判断材料となる。「自分を好きだといってくれる」というのも嬉しい属性のひとつであることはいうまでもない。また、その段階であまりに自分好みの属性を見出してしまい、まるで他の属性などないかのようにのめり込む状態を、昔から「恋は盲目」というのである。惚れっぽい人というのも、一部の属性を見ただけで「好き」と思い込めるタイプなんだろう。逆に、恋愛に奥手な人は、相手の属性を発掘しても発掘しても安心できない。

究極の属性萌えである恋愛は、その後の不本意な属性の発見と萌えポイントの変遷というリスクを抱えている。「不誠実」な恋とはつまり、このリスクを熟慮せずに好きな気持ちを伝えた挙句、すぐに萌えを撤回してしまうような態度のことだろう(性欲処理だけが目的で好きだと嘘をつくような不誠実はまた別の問題である)。であれば、どの程度の熟慮をもって「誠実」とするかは、まず正答のない設問といっていい。より効果的に自らの萌えポイントを満足させる相手が他にいないことを、一生のうちに証明することは不可能である。未来の「本当」なんて誰にも確信できない。

だから、「本当に好き」があり得るとすれば、それは「今」限定である。未来の可能性をすべて排除して初めてそれは可能になる。先のコメントのように「選択の余地があったらお前なんか選ばねえよ」というメッセージを受け取る人は、少なくとも今はない可能性について類推している。気持はわかるけれど、こればかりはキリがない。10人の女性から選ばれれば安心なのか。100人ならどうか。たとえ「世界中の全女性を吟味したけれどやっぱり君が好きだ」といわれても、その選択さえ「今」という条件からは解放されない。つまり、先の可能性を追求する限り恋愛は成立し得ない。

つまり「本当に好き」を追求することは、恋愛をできなくするか盲目にすることなのである。

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comment - コメント

恋してないと思うなあ。貧乏人が竹やぶで怪しい金入りバッグ拾ってドキドキしてるのと同じですよ。

わたしは愛情とはほぼ「信頼」のことだと考えていますが、この感覚はこうした「非モテ」界隈の恋愛談義とはまるでクロスするところがないですね。
「属性」の集積や比較検討というカタログ思考から、「この人のためなら死んで悔いなし」という観念が生じるものでしょうか。

他者への全面的信頼というものを自己愛の投影であると考えるならば、
「自分が自分であるという確からしさ」「自分可愛さ」が根拠なく可能であるように、
「相手のかけがえのなさ」「本当に好き」は、ときにあり得るものです。

「増田」の恋愛談義はそもそも恋愛談義でない、いつもの「劣等感」にまつわるつぶやきでしかないと感じます。

いつぞや「承認」なる語を一蹴したわたしが「信頼」を持ち出すのはどんなものか?と(覚えていれば)思われるかもしれませんね。
個人的語感への依存を避けようとすれば話が終わらなくなるのではあるけども…

他者への理不尽な働きかけ―主体性をお行儀よく放棄したあとの、自己疎外の地点に湧き出づる、せせこましい劣等感と優越感。
また、全体はつねに部分のスタティックな集合であるという素朴な図式(動的な関係そのものによる情報を度外視した、わかりやすすぎる思考)。
それらによる、どうどうめぐりの自閉的なつぶやき。
それは「オタクや非コミュの専売」ではないけど、恋愛一般の本質でもないですよね。
オタクや非コミュに顕著な、くらいは言ってもいいように思います。
むしろそうした「限定され、硬直した、わかりやすい」思考こそが、「おたく臭さ」、その退屈さの本質であるとわたしは思っています。

自分では説明のつもりで書いてるけど、「何言ってるのかわかりません」で一蹴されてもべつにかまいません。

> nbさん
結局のところ、恋と愛情を、ぼくはかなり違ったものだと自分の中で定義しちゃってるんですよね。ベタに書けば、何かのキッカケで簡単に落ちて、そのうちに覚めるような一種の錯覚が恋、付き合いの中で相手を知り、育まれていくのが愛情。つまり、恋は愛情を育む契機にはなり得てもいまだ愛情ではない、というのがぼくの解釈なわけです。極端な話、つり橋効果というのが実際にあり得るなら、ぼくの定義ではそれさえ恋ということになります。そして、つり橋効果とてまったく自分好みの性質を持たない相手には効果を発揮し得ないんじゃないか、と。でもって、「根拠がない」と思っている愛着や執着(自己愛を含む)にだって、本当は何か利己的な根拠があるんじゃないの、というのがぼくがここで展開した(nbさんの言葉を借りるなら「おたく臭」い)思考のベースにはあります。
それから、エントリー中では分かりやすく属性なんて書きましたが、これはもちろんスタティックなものなんかじゃないです。自分に対する気持ちみたいなものまで含む、時間軸や相互の関係性によって常に変化するダイナミックな性質全般を想定しています。そのほとんど無限大の組み合わせが、その人の瞬間瞬間を再現も代替も不可能な唯一無二の存在たらしめているんだと、まあ、およそそんなことを考えているわけです。つまり、かけがえのない相手が、次の瞬間にまったくの別物になっている可能性は決して消せないんだ、と。まあ、あまりに理屈っぽくて面白みに欠ける人間解釈ではありますが。

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