「人格者に限るw」ならみんな納得するのか?

確かに「イケメンに限るw」という茶々は品がないかもしれない。

「イケメンに限るw」とか言ってるが…

リンク先の匿名氏の怒りがどこまで妥当なものかはひとまずおく。そもそも「イケメンに限るw」は「ブサメンのオレ涙目」的な自虐を多分に含んでいるようにも思える。それよりも面白いのは、男女に限らず「ルックスで選ぶのは良くない」という点については、当たり前に合意があるように見えることだ。まあ、「自分がモテないのはルックスが悪いせい」といういい訳の側面もあろう。それでもなお、一般に「ルックスより性格」みたいな価値観の方を良しする傾向はあるように思う。でなければ、「イケメンに限るw」は女性への嫌味になり得ないし、女性が怒る理由にもなり得ない。

ところで、「ルックスより性格」は本当に妥当な意見なんだろうか。まあ、捉え方による、というのがとりあえずの答えになるだろう。ひとつ。これを処世術や教訓と捉えるなら、それなりに有用かもしれない。「美人は三日で飽きる」の類と思えばいい。要するに、「末永くやっていくパートナーを選ぶならルックスよりも総体的な相性で選んだ方が成功率が高いですよ」という先人の知恵である。これは「選ぶ側の視点」についての教訓であり決して善悪の問題ではない。「ルックスで選ぶなんて単純なやつだ」という話ではあっても「ルックスで選ぶなんて酷いやつだ」という話ではない。

ところが、これを「選ばれる側の視点」で捉えると話がこじれ始める。前提として「ルックスで選ぶ」と「性格で選ぶ」の間に普遍的な意味で価値の優劣や善悪はない。優劣や善悪を見出すのはあくまで各個人である。「ルックスで選ぶなんて酷い」という価値観もあれば「性格で選ぶなんて酷い」という価値観もあり得る。にもかかわらず、前者の価値観が他を圧倒しているように見える。そこにぼくは「選ばれる側の視点」を感じる。まず「自分が選ばれないのは不当だ」という気持ちがベースにあり、その分かりやすい理由としてルックスがやり玉にあげられる。そういうことではないか。

もちろん、ルックスを金や地位に置き換えても同じことがいえる。どれもベースには持たざる者の「選ばれる側の視点」が横たわっている。それらに比べて「性格」や「人格」や「相性」というのは選定基準が極めて曖昧だ。これなら、誰もが「平等」に勝負できそうな気がするのだろう。実際には気がするだけで、人間関係が「個人対個人」の問題である以上、個人の「ルックスの好み」より「性格の好み」の方がストライクゾーンが広いという保証はない。むしろ、「人格者に限るw」なんて世界になられた方がキツいんじゃないかと思う。個人の選択に「平等」はない。すべて「恣意」だ。

恣意的な選択の理由が「ルックス」か「性格」かなんてそれほど重要な問題だろうか?

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