恋愛とセックスは可分、恋愛と幸福も可分、恋愛と不幸は不可分

恋愛における「美味しい目」ってなんだろう。

モテずに恋を実らす方法

エントリの書き手の真意はおくとして、コメント欄にはセックスだけしたい、というような声もある。これはある意味羨ましい。つまり、感情的な高揚がなくてもセックスさえあれば気持ち良くなれるということだろう。これもひとつの才能じゃないかと思う。恋愛というのは冷静な目で見れば狂気に近い。舞い上がり中の自分なんてあまり客観的に見たくはない。けれども、その冷静さを欠いた状態がないと対人でのセックスはさほど気持ち良くないように思うのである。もちろん、ぼくのそう多くない経験が一般的かどうかは分からない。相手の実力にもよるだろう。

ともあれ、ぼくの中で性欲は恋愛の動機としてあまり機能してこなかった。それは恋愛とセックスは別、とかいう話ではない。セフレなんて欲しいとも思わない。感情を交えずセックスだけできる相手なら、それこそ2次元やらAVやらと大差ない。利き手の代わりになるほど、普通の対人セックスは自ら気持ち良いようにばかりできるものではないと思う。手淫でいい。ぼくは経験がないのだけれど、或いは、手練の風俗嬢に金を払ってしてもらう方が良いかもしれない。とにかく、相手がいても気持ち良いセックスをするのは案外難しい、というのがぼくの印象だ。

一方、一緒に過ごすことで得られる「幸せ」という不定形の感情こそが「美味しい目」の本丸だという人もいるだろう。それはまあその通りだと思う。みんな幸せになりたい。ただ、幸せというのは主観的すぎて難しい。なんかDVで殺されそうだとか、そういうのさえ幸せたり得る。その意味で、幸せな恋愛はなかなか一般化しにくい。それに、なんか適当に遊んで楽しくて興に乗ればセックスもする、という友人関係は可能だと思う。子作りを意図しないセックスはコミュニケーションの一種でしかない。幸せな友人関係と幸せな恋愛関係の本質的な違いはなんだろう。

結局、恋愛というのはある種、暗黙の契約なんだろう。お互いを縛る呪文みたいなものである。その縛り合いが幸せを生んだり不幸を生んだりする。恋愛の呪文を唱えるのは、無駄に身構えなければそれほど難しいことではない。それは先のエントリに書いてある通りだと思う。そして、それが自然な振る舞いになると、呪文の唱え合いがタイマンじゃなくなることもある。これは酷くシンドイことになる。幸せなんかとはほど遠い。きれいごとをいうつもりはないけれど、人間関係は作るよりも意図的に壊す方がずっと大変だ。特に恋愛の呪文は簡単に解除できない。

実は、恋愛の本質はこうした面倒臭さや辛さの方にこそあるのかもしれない。

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