歩こう歩こう私は元気

靴の先が汚れている。気分が悪い。履き替えている余裕は、ない。

鍵をかけてしまってから、風呂場の窓が小さく開いていることに気が付いた。もう、駄目かもしれない。閉めに戻っても開けたまま出かけても結果は同じだろう。階段を降りる。一段毎に張られた蜘蛛の巣を数えながら、捕食された瑠璃立羽の翅屑に血を滴らせる。背中が痛い。早くも焼け始めた車道に出る。家にいるアレは、何だ。溶けたアスファルトに足が沈む。駅まで無事辿りつけるだろうか。境界を失った胡乱な遠景がゆらゆらと歪に揺れている。ねちょりねちょりと糸を引くアスファルトを引きずり、のろのろと歩きだす。照り返しで信号が見えない。とにかく時間がない。

見えない信号をいよいよ渡り終えようかというとき、無闇に巨大なオートバイが左足を踏んで走り抜けていった。信号機は紫色に光っている。紫は高貴な色ではないのか。何故、足を砕かれた。見ると、靴の汚れが上書きされている。少しだけ、気分が良くなった。砕けた足で軽やかにステップを踏む。踏んだ数だけしとしとと赤黒い雨が降る。傾いた長屋の一室から半裸の老婆がふらふらとまろび出てくる。目が合った。ごろりごろりごろりごろり。目の前に転がってきた老婆は、落ちくぼんで緑色になった眼窩からコポコポと奇妙な音を立てて、大きく股を開いた。虚ろが見えた。

虚ろからずるずるとせり出してくる青紫色のシーボルトミミズを、溶けたアスファルトに塗れた足でぐちゃくちゃと踏み潰しながら、空からの電波を受信する。折れた携帯電話の上半分を右のポケットから、下半分を左のポケットから取り出す。ぬるぬるとして、気持ちがいい。とにかく駅だ。駅までだ。右手の液晶に浮かび上がった文字に安心する。左手でにゅるりにゅるりといくつかのボタンを押す。空との交信が途切れる。急がなければ。風呂場の窓から入り込む。血に溶けた瑠璃立羽の鱗粉が。アスファルトに溶けたシーボルトミミズの体液が。家にいるアレが、追ってくる。

高架にへばり付いたような駅舎が路地の向こうに見える。そういえば、駅が近いせいだろう、酷く人が混んでいる。無数の不躾な視線が手足に絡み付いてくる。こんなに狭い路地で、窒息しそうだ。邪魔だ邪魔だ邪魔だ邪魔だ。ヴォンヴォンと両の腕を振り回す。体中の毛根から迸り出た精液が女子高生やサラリーマンや老人や犬や茸やハシブトガラスに降り注ぐ。紅玉色の精液で世界が生まれる。もうすぐだ。軽やかに改札を抜ける。祝福のベルが鳴る。誰かが何かをいっている。肩にかけられた細長い手を、そっと優しく切りつける。ホームは人で溢れている。通過列車が、くる。

耳障りな悲鳴が聞こえ、すぐに何も聞こえなくなった。

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