ぼくはいつだって正しい

ぼくはいつだって正しいことしか書かない。

当たり前だ。書きながら間違っていると思ったら、普通なら、そのまま書き続けたりはしないからだ。けれども、書き終えてのちに再読し、「ああ、あのときのぼくは間違っていた」と思うことはある。今度は、「あのときのぼくは間違っていた」と思っている自分こそが正しいと思っている。だから、やっぱり現在進行形のぼくは正しいということになる。つまり、ぼくの「正しい」にはいつだって(現在進行形のぼくにとっては)という但し書きがつく。間違っていると知りつつ書くとすれば、それは何か特殊な目的があるか何か特殊な精神状態に陥っているかのいずれかだろう。

たとえば、誰かを陥れるために思ってもいない言葉を書き連ねる。ブログでアクセスが欲しいためにセンセーショナルな釣り記事を書いてみたり、何か下心があって内心好きでもない人に取り入るための提灯記事を書いてみたり、衆愚の反応を見るための実験記事と称して低劣な偏向記事をぶちあげてみたり、特定のターゲットを怒らせるために罵倒のための屁理屈を捏ね回してみたり…あえて間違ったことを書く理性的な動機は色々と考えられる。そして、思う。ぼくは意図的に間違ったことを書いた。つまり、ぼくの考えそのものが間違っていたわけではない。低俗ではあっても。

或いは、自暴自棄になって思ってもいない暴言を吐く。ブログやトラックバックやコメントやブックマークコメントで日々思い知らされる他人の無理解に翻弄され、正しいはずのぼくの言葉を誤読し反論してくる批評家たちの群れに圧倒され、渾身のエントリーに埋もれていた致命的な誤りを手酷く指摘されて依怙地になり、果たしてぼくは理性も理路も放棄して結論ありきの無理筋を主張しはじめる。正しい言葉をどれだけ委曲を尽くして書き連ねたところで、所詮正しく読まれることはないのだとメタレベルへの螺旋階段を駆け上がる。神の視点から、ぼくは正しいと叫び続ける。

だから、ぼくはいつだって正しい。けれども、誰にとっても正しいわけではないらしい。ぼくの主張の正しさは、誰かにとっての正しさを意味しない。どころか、多くの人にとって誤りですらあるようだ。そんな世界は間違っている。ぼくが間違っていない以上、間違っているのは世の中の方であるべきだ。だからぼくは、ただぼく自身のために主張しよう。この世は間違っている、と。あなたたちは間違っている、と。それが、この間違った世界ではぼくだけの正しさにすぎないという事実を知りながら、あえてぼくは主張する。ぼくの正しさなど、所詮、そういうものでしかない。

ぼくはいつだって正しいけれど、きっとみんなも正しいのだろう。

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