世界とリアルと彼女と猫

部屋とネットと俺と猫

窓を開け放したまま、いつのまにか眠り込んでいた。

外はもう明るくなっている。酷く身体が重い。風邪でもひいたかと憂鬱になる。身体を起しかけたとき、腹の上で猫が鳴いた。なんだ、風邪じゃなかったのか。…いや、そんなことよりも。痩せたキジトラが、腹の上で伸びをしている。チクリと小さな爪が皮膚を刺す。Tシャツの胸のロゴ辺りに座り直すと、勢いよく後足で首を掻き、続いて顔を洗いを始める。一頻り毛繕いを終えると、猫はようやく俺から降りた。小さな温もりが身体から離れることを少し残念に思いながら、キジトラの後姿を目で追う。猫は陽当たりのいい場所を見付けると、姿勢よく座って俺を見た。

世界は窓の外からやってきた。部屋の隅には猫を撮り損ねた一眼レフが転がっていたけれど、もう、それで猫を撮ろうとは思わなかった。俺は写真がやりたくてカメラを買ったわけじゃなかったんだ。そこにいる猫は、確かに俺を見ている。触れてはいないけれど、触れられることを俺は知っている。もう、ネットで猫の写真を見る必要はない。そう思った。そう思うと、急に机の上のパソコンが色褪せて見えた。俺が部屋にいるときはいつだって低い唸りを上げていたその四角い箱が、急に疎ましく思えてきた。それはもう、魔力を失ったただの箱にすぎなかった。

俺は衝動的にコンセントを引き抜くと、パソコンも、モニターも、モデムも、ルーターも何もかも、まとめて玄関の隅に積み上げ始めた。キジトラがしっぽをピンと立て、足元に纏わりついてくる。薄汚れた壁を拭き、溜まった埃を払う。一度手を付けると、あちこちの汚れが気になり始めた。何ヶ月かぶりに掃除機を引っ張り出す。じゃれつく猫に話しかけながら、結局、半日掃除をして過ごした。ここはもう昨日までの四畳半じゃない。そういえば、餌がない。何を買えばいいだろう。調べるか。そう思って、玄関のゴミの山を思い出す。誰かに訊けばいいか。

久しぶりに、自分から電話をかけた。猫を飼っている友人は、思いのほか親切に色々なことを教えてくれた。大抵の缶詰は補助食だから総合栄養食のドライフードから月々の予算が許す範囲で選べとか、賃貸なんだから柱はちゃんと保護した方がいいとか、爪は切りすぎちゃいけないとかなんとか。そして、猫はすぐに姿が見えなくなるから、と鈴のついた首輪をくれた。以来、人を呼ぶことなんて絶えてなかったこの四畳半に、友人たちがよく遊びにくるようになった。携帯カメラで撮られたキジトラの写真は、それほど親しくなかった知人にまで広まっていった。

友人宅で飲み明かした朝、俺は谷中を通りかかった。女がしゃがみ込むようにして一眼レフを構えている。レンズは日陰になった路地に向けられている。2度、3度、シャッター音が聞こえ、ゆっくりと女が立ち上がる。つられるようにして、俺は路地を覗き込んだ。アパートの階段の向こう側に、縞の尻尾が消えていくのが一瞬だけ見えた。似ているな、と思った。カメラを首にかけながら、女が俺を見ている。いっちゃいましたね。猫、好きなんですか?あたしもです。前は飼ってたんですけどね。女は自作の名刺を差し出すと、それじゃあ、といって路地に消えた。

部屋に戻ると、キジトラの姿がなかった。名前を呼ぼうとしたけれど、あの猫に名前はなかった。あの日以来、窓は開け放たれている。何しろ、世界は窓からやってくるのだから。けれども、猫は2度と戻ってこなかった。ある日、俺はジーパンを洗おうとしてポケットに押し込まれた名刺を見付けた。ふと思い立ち、玄関に積まれたパソコンを元に戻す。もう、キジトラが纏わりついてくることはない。ブラウザを立ち上げ、名刺のアドレスにアクセスする。個展会場の場所を携帯に転送すると、俺は相変わらず窓を開け放ったまま部屋を出る。受付にあのときの女がいる。

それはとても好いキジトラの写真だった。ネットの向こうにもちゃんと世界は広がっていた。


(※註:ぼくはリンク先の記事を書いた増田氏ではありません)

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/364

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索