興味のないものは本当に見えなくなる

以前、式神の正体はアンタッチャブルだった、というような小説を読んだことがある。

それにしても、フルHDのテレビで観るDVDは酷く画が粗い。DVDの低い解像度を無理やり引き伸ばして表示しているのだから、これは仕方のない話である。彼女はあまりこうしたものに興味がない。すると、途端に会話が成り立たなくなる。明らかに粗いと主張するぼくに対して、彼女の反応はあまり芳しくない。どこが気になるのかまるで分からないらしい。地上デジタルの放送と比べても明らかに見劣りする画質である。その差が知覚できないはずはない。つまり、知覚はしていても有意な差異として認識はしていないらしいのである。そして、言葉になるのは知覚ではなく認識だ。

そこにあっても見えないものは「差異」だけではない。街中では他人が見えなくなる。知覚はしても、認識はしない。だから、ケータイで痴話喧嘩もできるし、レストランで食事もできる。電車やバスで物を食べる人も増えた。特別に目立つ行動でもしない限り、他人はいないも同然である。意識を向ける必要のないものは、人には見えない。だから、使用人を犯人にしてはいけないのだし、殿上人に式神は見えないのである。向こう三軒両隣の世間など、疾うに失われつつある。日常は透明人間で溢れ返っている。「透明な存在であるボク」は12年前でさえ特別な存在ではなかった。

人はすべての人と関わることはできない。といって、人が人を選ぶことは不遜だろう。が、人は人を選ぶ。意識的に選ぶばかりではない。端から認識しないという選び方もする。好むと好まざるとに関わらず、人はそうやって無意識に関わるべき人間を選んでいる。貴族に式神が見えないように、熱愛中のカップルには他の異性が見えないし、面食いには不細工が見えない。イジメだとか失礼だとかいう性質の問題ではない。無視しているわけではないのである。「世間」があった頃には「影の薄い人」というのがいたけれど、今は他人に影なんてない。意識して見ない限りは、ない。

興味の対象がせいぜい自分くらいしかない。それすら僅かな興味でしかないように思える。時折、そんな虚無感に襲われる。中二病といわれればそうなのかもしれないし、メンヘラだといわれればそうなのかもしれない。ただ、苦しくはない。日常を愉しんでもいる。意識の外にある誰かを傷つけている可能性はあるだろう。迷惑をかけていることだってあるかもしれない。ただ、人は誰しもそんな風にしか生きられないのだとも思っている。ふとした瞬間、伸ばしたアンテナが受信するもののすべてが、ただ自分の欠片でしかないような思いに駆られる。途端に世界が見えなくなる。

ぼくはいずれ、目を開けたまま盲目になってしまうのかもしれない。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/603

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索