障害キャラの作曲家に怒り、清純キャラの少女に失恋する

佐村何某の騒動、なんだかんだ面白い。これに本気で怒るというのも野暮な話だ。

彼氏なんていません、エッチなんてしたことありません…そんな処女性をウリに商売をしてきたアイドルに、ある日、下世話な意味でとても親しい男がいたことがわかる。清純な美少女という物語を嬉々として買い、あるいはそうしたニーズを利用して商売をしていた人たちが、詐欺だ、裏切りだといって発狂する。構造的にはそんなアイドルの失態劇となんら変わらない。

どんなコンテンツもプロダクトも、物語込みで消費される云々…とは、とうに語り尽くされた話だろう。創作物やある種の表現を、創作者やその周辺の物語込みで楽しむのはごく自然なことだ。それはエンターテイメントだろうと芸術作品だろうと変わらない。岡本太郎や草間彌生のファンが、人物像や背景や世評と切り離された作品のみを愛しているとは考えにくい。

より多くの、より自分好みの物語を幻視するとき、その消費行為はとても充実したものになる。その意味で、快楽の多寡は消費者自身の能力に依存する。コンテンツの送り手は、そこに付け入ろうとする。消費者が読み取るべき物語を最初からパッケージにして、どうです、面白いでしょう…とすり寄ってくる。障害者というのも人気のパッケージのひとつにすぎない。

コンテクストを読む手間や能力を要さず、コンテンツに付随する物語を消費できる。飛びつく消費者が多ければ、そういう人たち向けのコンテンツが売られるのは当然だ。たとえば、格闘技特番なんて、放送時間の半分以上が選手たちの因縁や不屈の精神の物語に費やされる。おかげでタイトル戦しか観ないようなイチゲンさんでも手軽にエキサイトすることができる。

もちろん、そんなお仕着せの物語は往々にして大衆迎合的で底が浅い。だから、ほとんどは使い捨ての娯楽にしかならない。消費者は次から次へとセンセーショナルでお手軽な物語を求め、コンテンツの送り手は手垢の付いた物語を何度も再利用しながら粗製濫造を繰り返す。なんともお粗末な共犯関係ではあるけれど、人間、牛丼やハンバーガーを食いたいときもある。

ただ、そんなものばかり食っていては体に悪い。

自ら楽しむ力を鍛えるのも人生の娯楽だろうと、ぼくは思う。

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