「叩き上げリア充」vs「陽の下に出てきた非コミュ」の聖戦

橋下大阪市長と反ハシズム派論客の話である。

それほど熱心にウォッチしているわけではないけれど、1月27日の朝生の一件やら何やらを眺めていると、どうにも居心地の悪い思いが拭えない。原因はおそらく、ぼくが反ハシズム側に近しい心性の持ち主でありながら、議論上の態度としては橋下市長支持だからである。叩き上げのリア充たる橋下市長が、陽の下に出てきた非コミュたる香山氏、薬師院氏をフルボッコ。あの日の朝生の印象を要約するとこうなる。他の面々は、ほとんどこのふたりが作り出した負の大竜巻に巻き込まれた形で、強弁がすぎるばかりの共産党山下参議院議員含め、有意義な論陣を張れる人間はいなかった。とりあえず対話になっていたのは自民の柳本市会議員くらいだったように思う。あれでは勝負になりようがない。

市長による名指しの批判が引っかかり続けて、個人的な恐怖心や不安を社会現象に仮託し、弱者切り捨て論で共感を得ようとするも理路が定まらず、生彩を欠き続ける香山氏。やろうとしていることの是非はわからないが、市長の「やり方」がとにかく許せない、と必死の猫パンチを繰り出し続ける薬師院氏。政治がわからないことにかけては人後に落ちない自信のあるぼくでも、彼らのやり方が政治的に力を持ち得ないことくらいはわかる。どころか、反橋下派にとっては百害あってなんとやらだろう。そもそも非コミュと政治ほど相性の悪いものはない。政治というのはコミュニケーションそのものだからだ。自らの内面を覗き込みながら生きる非社会的な人間に、政治的説得力など持ちようがない。

旧態依然なシステムの再構築という「戦略」を持って挑む橋下側からすれば、政治手法や個別の政策といった「戦術」面で瑕疵を指摘されることはさしたる問題ではない。「戦術」は「戦略」のために常に修正、最適化されるべきもので、最初からすべて正しいなんてことはあり得ない。橋下市長自身も、そのことに意識的な発言を繰り返している。曰く「意見は人それぞれ」「よりよい対案があるなら出してください」。彼らの議論を政治的な論争だと思って見ている観客にとって、これほどわかりやすい図はない。橋下サイドの「戦略」そのものを否定できる反ハシズム論客は皆無で、「戦術」についてすら瑕疵を責めるのみでより最適な解を提示するに至らない。政争の士としてはポンコツである。

結局のところ、香山氏も薬師院氏も端から上がる土俵を間違えている。政治的な論争はコミュニケーションのプロフェッショナルに任せるべきだ。彼らは政治闘争になど与せず、ただ市井の声のひとつとして不安や恐怖を訴え続けていればいい。そしてその恐怖の正体を、恐怖を感じざるを得ない「弱者」としての声を、きっちりと言葉にしていくべきだろう。彼らの戦えるフィールドはそこにしかない。ぼくは彼らの恐怖心や不安には十二分に共感している。橋下的な効率化推進の潮流が、社会の「全体最適」に向かうことは想像に難くない。そのときぼくが「全体最適」の犠牲になる、取るに足りない「部分」である可能性は低くない。いざとなれば、自ら属する「部分最適」を主張したくもなろう。

それでもぼくが橋下支持なのは、「全体最適」の末に「部分」の再浮上を期待するからだ。もちろん、再浮上の前に死んでしまうリスクはある。彼を支持するとは、そういうことだ。一方、あらゆる切り捨てを許さないという主張があり得ることもわかっている。全体のために部分を見捨てざるを得ない状況が出来しても、断固として判断を保留し続けるという「正義」はあろう。自らの意志でマイノリティを殺すくらいなら、もろともに死んだ方がマシだ。そう信じるなら「弱者を殺すくらいならみんなで死を選ぶ社会」という「戦略」を掲げればいい。いずれ、反橋下派に必要なのは、陽の下で心情を吐露する非コミュなどではなく、「戦略」をもったコミュニケーションのプロたる「孔明」だろう。

とはいえ、すでに「孔明」は橋下派に与しているのかもしれない。

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