光市母子殺害事件高裁判決に事寄せて善悪について思う

善悪を決めるのは誰か。

極東ブログ: 光市母子殺害事件高裁判決、雑感」を読んでつらつらと考えた。さして深く考えたわけではない。深く考えても無駄だと思ったからだ。finalvent氏は先のエントリで日経新聞の社説を引き、「つまり、死刑の量刑も『一般国民の感覚』によるということだろう。」と書いている。落としどころはその辺りにしかないとぼくも思う。当然ながらことの善悪を決めるのは各個人である。立小便は善か悪か。売春は善か悪か。動物殺しは善か悪か。人殺しは善か悪か。どの問いにも当たり前はない。人なんてどんどん死んだ方がいいという人もいるだろう。

極論、量刑というのは運だろうと思う。将来自分が司法の捌きを受ける可能性を想像するとやりきれないけれど、これは仕方がないと諦めるしかない。世の中は結構複雑である。人が人を殺す経緯は十人十色だろうし、それを世間がどう受け止めるかも世情による。カチンときたとか死刑になりたかったとかいうのもあれば、涙なしには語れない悲壮な復讐譚もある。限りなく事故に近いものや、未必の故意かと思うようなものも中にはあろう。その行為が死に値するかどうかは状況が決める。もの凄く単純な話、死刑のない国に生まれれば死刑にはならない。

つまり、善悪を決めるのは漠然と自分が所属する社会である。社会というのは、よく分からない「みんな」である。その「みんな」の意見を左右する要素は多岐にわたる。時代の空気みたいなものもあろうし、それまでその社会が経験してきた営みの質にも依るだろう。殺人の起こったことのない社会が予め殺人の善悪を規定することは難しい。凶悪犯罪の「凶悪」の度合いだって同じだ。「みんな」の経験値によって感じ方は変わる。18歳が大人か子供かというのも似たような問題だろう。ただ、大人だというなら選挙権をはじめとする権利も与えるべきだ。

社会の意見は情報の伝わり方によっても違ってくるだろうし、そうして醸成された民意は裁判にも影響を及ぼすだろう。「みんな」は本村劇場を見て悲憤慷慨したり、死刑存置派になったりする。逆に、本村氏のあまりにヒロイックでドラマティックな振る舞いや、ナルシスティックでエゴイスティックな交換日記の出版、映画化など心情不可解なエンタメ参入劇に違和感を強めたりもする。こういうとき大勢を支配するのは情報量の多さや声の大きさだろう。裁判というのは量刑を決するシステムだけれど、その根拠となるのは結局人々の「感情」である。

よって、神のごとき指導的支配者のいない社会では裁判員制度を採るよりないのかもしれない。

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