成果主義を推進する政治は政治ではない

ぼくが麻生首相の医療費発言を問題だと思うのは、それが政治の放棄を意味するからだ。

こうした福祉に絡む話題で、自己責任論が飛び出すたびに不思議に思う。ぼくはいわゆるネットサヨク的な言説にさほど共感はできない。けれども、「不幸な状態にある人」を自己責任という言葉で切り捨てようとする態度には酷く違和感を覚える。何故ならぼくは、国家をはじめとする共同体の存在意義は、「いかに不幸を減らすか」にあると考えているからだ。そうでなくては、共同体の意味がない。「運や実力に恵まれた人はそれに見合った利益を手にし、そうでない人はそれなりの人生を送るのが当然だ」…これは端的にいって政治の否定だ。まるっきり野生のルールである。

この野生のルールは、今の社会では資本主義という形で限定的に運用されている。これは競争原理が共同体全体の利益を底上げするという信念に基づいた選択だろう。会社単位にまで話を縮小すれば「成果主義」である。競争原理によって社員のモチベーションを高め会社全体の利益の底上げを図る。まあ、適正な評価が難しいなど問題を孕みすぎていて、なかなかうまくはいかないようだけれど。ともあれ、会社の「成果主義」でさえ自由競争の範囲は限定的である。すべての社員は会社の人的、或いは、物質的資産の恩恵を受けられ、また、完全歩合でない限り基本給を手にできる。

もしも、会社が持つ一切の資産(ネームバリューなど無形のものも含む)の恩恵が受けられず、基本給も確保されないとなれば、それはもう会社である意味がない。自分のデスクも備品も何もなくすべての事務処理を自分の手で行い、自分の実力だけで営業し仕事を取り利益を上げる。どう見てもフリーランスである。会社に所属する意味はゼロだ。これはあらゆる共同体にいえる。つまり、「実力主義」を推し進めることは、共同体の存在意義を捨てていくことを意味する。政治も同じである。弱肉強食の世界なら放っておいても実現する。それを放っておかないのが政治だろう。

もちろん、「政治など要らない。野生に帰って弱肉強食の世界を生きたいのだ」という人がいてもおかしくはない。けれども、いわゆる「自己責任」をいう人がそんな一切の保障も救済もない実力主義を望んでいるとは思えない。彼らの多くは、自分が社会のセーフティネットに守られながらそれに無自覚か、或いは、当然のことと考えているのだろう。自らの実力で今の生活を維持していると勘違いしている可能性が高い。そして、網から漏れた人を見て、彼らには実力、或いは、努力が足りないのだから、自分が受けている恩恵を削ってまで救うのは厭だと主張するのだろう。

有限の資産をいかに分配するかは難しい政治の仕事だけれど、成果主義は政治ではない。


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