特急車内での強姦事件に思う

いい加減ほとぼりも冷めただろう。

ということで、この件に関してなんとなく感じたことを書き留めておく。ネット上にあるニュースを色々と読んでみたものの、結局のところそれほど詳細な記事は見つけられなかった。とりあえずは4月22日の朝日の記事にリンクしておく。この記事から読み取れる情報はあまりに少ない。なので、厳密な考察などは土台不可能である。

その辺りは妄想力で補いつつ話を進める。つまり、これから先書く内容は、半ばフィクションである。それから、もうひとつ前以て断っておくけれど、ぼくはこの手の犯罪を過小評価したり、防げなかったことを仕方がなかったなんていうつもりはない。治しようがないのなら、強姦癖のある男など死ねばいいとさえ思う。

じゃあ、何がいいたいのかというと、もちろん乗客40人の話である。

40人近くもいて、誰ひとり行動を起こせなかったとは情けない。というのがどうやら世間一般の代表的な反応である。卑劣な犯罪を前に、見て見ぬ振りをした同乗者も同罪だ、とまでいう人もいる。イジメ問題でもよくきく台詞である。これらの反応を否定するつもりはない。ただ、本当にそうなのか、という思いがあることも事実である。

「一部の人は異状に気づいたが」という文章を見る限り、40人もの人間が見て見ぬ振りというのは受け手の勝手な印象でしかない。おそらく、マスコミの論調が影響しているのだろう。それはたぶん、事実ではない。もっというなら、実は「いまここで性犯罪が行われている」と、はっきり認識していた乗客は極めて少なかったんじゃないか。

事件が起こったのは特急サンダーバードの車両内である。こうした特急列車の座席というのは、大抵、背凭れの高いボックスシートになっている。この手のシートというのはすこぶる見通しが悪い。ぼくの感覚だと、普通に席に座っていて見渡せる範囲は同列とその前後くらいのものだ。満席でせいぜい5、6人の様子が窺える程度だろう。

さらにいえば、ぼくなら同じ車両の他人が何をしているかなど、いちいち窺って歩いたりはしない。下手をすればふたつ前の席でカップルが半裸でことに及んでいても気付かないかもしれない。たとえ乗り降りの際、通り掛かった数瞬に淫らな姿が目の端を過ぎったとて、あえてそれを立ち止まって確認したりはしないだろう。

だとすれば、ぼくがあの事件の車両内にいたとして、事件の存在に気付けた可能性はそれほど高くないと思わざるを得ない。乗車駅の異なるふたり、歳の離れたカップル、すすり泣く女性、執拗に身体をまさぐる手…そうした状況証拠は、確かに男の犯罪を示唆してはいる。ただ、そのすべてをはっきり認識することは容易ではない。

よしんばできたとしても、漠とした疑惑の域を出るものではない。

乗車駅が異なるだけなら、車内で待ち合わせた可能性もあろう。歳の離れたカップルなどいくらでもいるし、キャバ嬢と客みたいな組み合わせも珍しくはない。公然と車内で身体を触る男と嫌がる女が、恋人同士でないなんてことは全然いえない。痴話喧嘩やら別れ話やらで女を泣かせている男などそこいら中に溢れている。

人間というのは、過去を捏造する生き物である。自分では意識していなくても、あの時ああだったんじゃないですか、とかなんとか問い質されると、そうだったかもしれないとか思うようにできている。それは、サスペンスドラマで犯人が指摘された瞬間、やっぱり怪しいと思ってたんだよ、なんていうのと同じことである。

そういわれてみれば、確かにあのふたりは様子がおかしかった。そんな風に思った乗客は多かったかもしれない。けれども、それはたぶん、過去が再構成された結果に過ぎない。極端な話、風俗嬢と客が温泉旅行に行く途中痴話喧嘩をしていたのだとしても、事情聴取が行われれば、同じようにあのふたりはおかしかったと答えるに違いない。

だからといって、被害者の女性は運が悪かったのだ、で済む話ではもちろんない。

問題はだから、認識の確度にはない。むしろ、恥だとか遠慮といった美徳のようなものにこそ、より多くの原因があるように思う。つまり、はっきり痴漢行為や強姦であると確信できない限り、声を上げることができない。万がひとつにも間違っていた場合、注意したこちらもされた相手も共に赤恥をかくことになる。そういう感覚である。

確かに合意の上での行為だったとしても公然猥褻などは非難されてしかるべきである。けれども、ボックスシートで乳繰り合うふたりなど、それこそ眉を顰めながらも見て見ぬ振りをするのが社会的な態度であろう。デバガメよろしく覗き込んだり、あんなところでペッティングしてますよ取り締まってくださいなどと通報する人は稀だ。

そうした世間一般の節度ある態度が裏目に出た。これはそういう事例ではないかと思う。たとえただの痴話喧嘩や公衆の面前での羞恥プレイだったとしても、泣いている女性を威圧する男の姿や、強引に性的な行為に及んでいるような様子を見れば、とにかく声をかけるなり誰かと協力して止めるなりしておく。犯罪でない可能性などは考えない。

間違っていたときは、それは済まなかったと謝りつつ、とりあえずそちらも人前でややこしい行為は謹んでくれ、くらいのことはいってやる。これは、要するに「お節介」の復活である。プライバシーなどという小賢しい観念が巷間に流布し、お節介を焼く人間がいなくなった。これはその代償なんじゃなかろうか。そんな風にも思える。

現代人はとかく恥と干渉を嫌う。そのふたつを度外視しない限り、この手の犯罪を抑止することはたぶん難しい。「女を泣かせるなんぞ、どういう了見だ」「電車はラブホテルじゃねぇ」「便所にしけ込んで何する気だ、この薄らトンカチめ」なんて啖呵のひとつも切れる社会の方が、犯罪抑止の点では健全といえるのかもしれない。

そんなわけで、自分なら絶対に行動を起こしたなどといい切る人を、ぼくは信じる気にはなれない。もちろん、明らかに目の前で強姦事件が起こっていると40人の人間がはっきりと認識し、その中に自分もいたという前提であれば、かなりの確率で行動しただろうということはできる。ただし、これはいかにもご都合主義的な前提である。

現実にはちょっとあり得そうにない。

いずれ、かの40名をただ非難して正義漢ぶることに、さしたる意味はないだろう。

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