本の読み方には2種類ある

本の読み方は、大きく「没入タイプ」と「鳥瞰タイプ」に分けられる。

もしかすると、多くの人はこうした読み分けを自然と身に付けているのかもしれない。ぼくはぼんやりとした人間だから、そのことに気付いたのは社会人になってからだった。それまでは、すべての本を同じように読んでいた。ぼくにとって、すべての読書は娯楽だ。その読書に対する基本姿勢が変わったわけではない。ただし、愉しみは分類できる。大雑把にいえば「作品として愉しむ」か「情報源として愉しむ」かということになる。当たり前といえば当たり前のことだろう。ここまで書けば、前者が「没入タイプ」向きで、後者が「鳥瞰タイプ」向けなのはいうまでもない。

ぼくが多くの読書術に対して違和感を抱いていた原因は、ぼく自身の軸足が「作品として愉しむ」読書にあったせいだろう。「没入タイプ」の読書に技術は要らない。勘違いされがちだけれど、それは本のジャンルによって規定されるわけではない。実用書でも科学書でも技術書でも「作品として愉しむ」ことはできる。著者の息遣いに耳を澄ませ、文体に酔い、その思考や思想にシンクロする。それは、フィクションとはまた違った愉悦を齎してくれる。逆に、あるジャンル小説に興味を持ち、代表作を中心に「情報源として愉しむ」ような分析的なフィクションの読み方もある。

このことに気付いたとき、ぼくは目的によって本の読み方を変えるようになった。いや、本の選び方から違っているというべきか。「没入タイプ」のときは極力事前情報を入れない。著者名、書名、装丁、帯、裏表紙、本文最初の数行を眺める程度で深入りはしない。解説やあとがきの類は極力読まない。他人の(それがたとえ著者自身でも)視線のバイアスがかかることを好まないためだ。逆に「鳥瞰タイプ」の場合は、事前情報をできるだけ入れる。「没入タイプ」のチェックポイントに加えて、目次、まえがき、あとがきの類を極力読む。場合によってはネットで評判も見る。

ぼくは主に電車で本を読む。鞄には常に読みかけの本と付箋が入っている。「没入タイプ」のときはただ読むだけだ。それ以上、何も付け加えることはない。「鳥瞰タイプ」のときは情報を抜き出すようにして読む。方法論は古今の読書術関連本が教えてくれる。ぼくは生来ズボラな人間だからその辺りは適当にやっている。まず、目次や見出しを追ってみておおよその情報の流れを予測する。文章を味わわない。気になるページには付箋を貼る。自分にとって不要な情報は荒っぽく流し読む。脳内まとめサイトを立ち上げる。気が向けば付箋の箇所を再読する。ハズレなら挫折する。

世に溢れる速読術やなんかは、本を「情報源として愉しむ」ときにだけ有効な方法だろう。自分の脳内DBを充実することはひとつの快楽であり娯楽である。その手段として読書は有効だし、そうした目的で本を利用する以上、効率的な情報入手を考えるのは自然である。「止揚」の意味が知りたいのに辞書を1ページ目から読むことはない。逆に「作品として愉しむ」ときに、この手の策を弄するのはナンセンスだ。同じ読書という形をとってはいても、これらはまったく別の行為である。得られる快楽もまったく違う。セックスとオナニーくらい違う。もちろん、優劣の問題ではない。

目的に合った読み方をする。そんなことに20代半ばまで気付かなかったぼくもぼくである。

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