ボクノタメニ泣イテクレOut of the mouth comes evil.

月曜日の朝、目覚めると家に父親がいる。

これが最初の実感だった。なるほど、定年を迎えるということはこういうことか。出勤時間の遅いぼくは、ひとつ屋根の下に暮らしながらもう何年も、平日の朝、父の姿を見ることはなかった。浅い眠りの中でドライヤーや電気剃刀の音、毎度大騒ぎで見送る犬の声を聞く。それがぼくにとっての朝の父である。それが今朝は同じ食卓についている。

土曜日には還暦のお祝いをした。家族3人、実にささやかなものである。近所のステーキハウスで軽いコースを食べ、プレゼントを手渡した。普段は控えているビールも、少しだけ解禁した。特別な1日はそれなりに演出されていたと思う。けれども、父が爺さんになったという気はしなかった。だから今朝、家にいる父に違和感を覚えたのだろう。

実家にいると親の老いに鈍感になるということはあるかもしれない。けれども、そう思って改めて見詰めてみても、やはり衰えたという感じはしない。そもそも以前から両親ともに、若く見られることが多い人たちだった。今は母親の方が歳相応に近付いているように思う。それは多分、父が会社員として勤めに出ていたことと無関係ではない。

社会の中で働くというのは、どこかで自分を律することに繋がる。ちゃんと働きながら自堕落になり切れる人は稀だろう。一方、母は社会というよりは世間の中で生きている人である。別に家でのんべんだらりとしているという意味ではない。むしろ、10年以上続いている趣味に忙しく、家を空けていることの方が多い。母は手話をやっている。

けれども、世間には社会と違って色がある。母の属する世間はどうやら主婦層が中心で、そこに聾唖者や障害者といった特殊な世間が習合したものである。社会性が希薄なのは単純に食えない世界だからだろう。自力で社会生活を送ろうとしている人が生きられる世間ではない。どこまでいっても顔の見える人間関係では見える世界も限られてくる。

本人はきっとそこに張り合いも緊張も刺激も感じている。使命感すら持っている節がある。もちろん悪いことではない。人生を豊かに過ごすには、最も大切なものかもしれない。けれども、父と母ではやはり身の律し方に差がある。それはつまり緊張感の質の問題なんだろう。会社員は会社という世間に属しながら、広く顔の見えない社会に生きている。

たとえば、父は身なりを構う方ではない。それでも、生活がだらしなくなったと感じることはない。母は元々身なりや服装を気にする人だった。それが歳と共にいい加減になりつつある。生活の規範などはほとんどなし崩し的に消滅している。要するに、歳をとっても社会人たる父は生活態度に張りを維持し、世間人たる母はだらしなく崩れつつある。

そうした日々の気の張りは外見にも影響するものだ。

相手が世間では油断が出るのだろう。だとすれば、父が本当に老いるのは会社を完全に引退してからなのかもしれない。実は、定年を迎えたといいながら、父は完全に隠居したわけではない。週に3日、乞われて勤務を続けることになった。本人はもう引退して趣味に勤しみたかったようだけれど、頼まれれば無碍にできない性質である。

それでも、家にいる時間は確実に増える。部屋に引きこもるタイプとは思えないから、ひとり出かけることも多くなるだろう。そう思って、プレゼントはポロシャツにした。身なりに構わないのは性格もあるだろうけれど、平日を背広や作業服で過ごすサラリーマン生活によるところも大きかったはずだ。ならばこれから多少は気を遣った方が好い。

やはり、自分の親に老け込んで欲しくはない。

今のところ、親の世話をする将来というのは、それほど現実的に見えてきてはいない。世の中を眺めてみても、60歳などは年寄りの内に入らない雰囲気である。それでもステーキを食しながら「おれももう還暦やで。まだ結婚の予定とかないんか」などといわれると、なるほど、父も歳をとったのだなと、自分の歳に事寄せて再認識してしまう。

いずれにしても早晩、両親が老いることは間違いがない。その前に子の巣立ちを経験させてやるのも子の役目という気もする。たとえ社会人として働き生活費を入れてはいても、独身の実家暮らしではとても独立したとは思えないのだろう。父が今のぼくの歳の頃、父はすでに父だった。そうして見ると、ぼくなどはいまだ半人前もいいところだ。

ならば、早い内に家を出る、これもまた親孝行ということなのかもしれない。