活字に対する執着

床に詰まれた本たちいつも鞄に本を忍ばせている。

すると、目聡い人にどれくらい読むのかなんて訊かれたりする。年間100冊前後だと答えると、そりゃあ活字中毒だね、などといわれる。いやいや、それほど酷くはないよ、と答えると、どうも謙遜に聞こえるらしく十分立派なものだよ、なんて切り返されて困る。

そもそも本を読むこと自体は、別に凄いことでも偉いことでも何でもない。完全なる娯楽なわけで、特殊な技能も才能も要らないし、テレビを見たりラジオを聴いたりするのとなんら変わりない。その意味では本の虫を中毒に喩えるのは、強ち的外れではないのかもしれない。

その上でなお、中毒じゃないといい張るのは、ぼくは手元に本がなくても案外に平気だからである。鞄には本と一緒にiPodも入っている。本がなければ、これを聴いてもいいのだし、そういう気分じゃなければ、ぼぅと周囲を眺めながら考え事に耽っていればいい。

要するに通勤やなんかのぽっかり手の空いた時間に、手軽な娯楽として本を読む習慣があるというだけで、そこには高尚な目的も向学の情熱も特にないのである。だから、本を読んでいるから賢いというような決め付けには、どう対処していいやら分からず戸惑うばかりである。

もうひとつ付け加えるなら、年間100冊は決して多読な方ではない。平均すれば週に2冊程度の読書量である。速読なんかをする人なら、片道30分の電車内で1冊読了なんて芸当も可能だろう。行き帰りで2冊なら平日だけでも週に10冊、年間500冊以上読める計算になる。

とにかく沢山の本を読みたい人、あるいは職業上必要がある人なんかは、これ以上に読んでいてもおかしくない。上を見ればキリがないとはよく聞くけれど、それほど上を見なくとも、ぼく程度の読書量なら単に読書家とさえいい難いレベルだろう。

世に溢れる書評サイトを少し見るだけでもそれは明らかだ。

何だか自分は読書家じゃないことを必死で証明しようとしているかのような様相を呈してきた。別に読書家であることや多読であることを悪く思っているわけではないので、念のため。要するに、ぼくにとって読書というのは世間にありがちな趣味のひとつでしかないのである。

もちろん、ある程度以上の量を読まないと分からないことはある。知っていることが増えればより楽しめる、そういう本は少なくない。美食で舌が肥えるように、多読で目が肥えるということもあろう。お陰でベストセラーが楽しめないなんてこともあるかもしれない。

そういうことも含めて、読書は飽きない娯楽なのである。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/107

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索