結婚式にかこつけデジカメを物色する

Nikonデジタル一眼レフD80帰宅すると招待状が届いていた。

日付が変わったのでもう昨日ということになる。名前を見ると男名の連名である。はて、と思ってよく見ると、唯一片方の名字にだけは覚えがある。それで漸く友人の結婚式に呼ばれたんだと気が付いた。招待されることは知らされていたのに間の抜けた話だ。

このカップルのことは新郎新婦共に知っている。ふたりとぼくとぼくの彼女で小旅行にも出かけたし、ホームパーティらしきものもたびたび開いている。スタイルがよくてお洒落なふたりは、見るからに似合いのカップルである。どちらかといえばかかあ天下かもしれない。

それだけ仲良くしていながらすぐに招待状に気が付かなかったのは、彼女の名字を知らなかったせいである。初めて紹介し合ったときから下の名前でしか呼び合っていなかったのだから仕方がない。そこへきて、招待状の差出人名は両名のご尊父である。

確かにこれがフォーマルなやり方ではある。特に親戚など目上の人たちへの礼儀を重んじるなら、古来の風習通り親の名で出すのが筋だろう。ただ、ぼくたちくらいの世代になると、友人からの招待状は本人名で送られてくることが多くなりつつある。

きっと出す相手によって親名義と本人名義を使い分けているんだろう。

これはインビテーションカードや席次表、席札といった紙モノを手作りするカップルが増えたこととも関係があるのかもしれない。それだけ自分たちの式だという意識が強くなってきているのだろう。家同士の儀式だなんて感覚はもうほとんどないように思う。

家父長制が崩壊した段階で形式としての家なんてものはなくなったようなものである。確固とした制度としての家は、家庭なんていうよくわからない曖昧で精神的なものに変わってしまった。つまり、結婚式はこの家庭なるものへの第一歩を記す記念日となったわけである。

もちろん、効率的にお披露目を済ませるという、より実際的な機能も無視はできない。式を飛ばして縁ある人々を訪ね歩いていては、時間もお金もいくらあっても足りないということになる。式をすれば資金は祝儀で回収できるし、挨拶回りもせずに済む。

実に高効率である。

要するに礼を尽くすべき親族郎党に心当たりがあるなら、式をするのが効率的かつ経済的なのである。それがないなら、とにかく婚姻届だけを出せばいい。報告だけなら、次の年明けに「わたしたち結婚しました」なんて写真付きの年賀状でもばら撒いておけば済む話である。

そういう価値観の新婚夫婦がいてもいい。個人的にはそう思う。そういうふたりを祝ってやりたいと思うなら、自ら宴席でも設けて祝ってやればいいのである。個人的な気持ちを大事にするならそれで十分だろう。式や披露宴がないから祝ってやれないなんてことはない。

そんなことを思いながら、返信ハガキに出席の意志を書き込む。

はてさて、スーツは新調すべきだろうか。それよりもデジカメを新調したい気もする。ついに超初期型のサイバーショットが使い物にならなくなった。当日はやっぱりふたりの姿を撮っておきたい。さして当人たちとコミュニケーションが取れない場での数少ない愉しみである。

実は前々から欲しいカメラがある。Nikonデジタル一眼レフD80だ。けれども、さすがにこれは値がはるし、こんなものを友人席のぼくが構えていては悪目立ちが過ぎよう。ここはじっと我慢の子である。とりあえずは安くて小さいコンパクトデジカメを物色してみるつもりだ。

何故か最終的に物欲の話になるのがいかにもである。

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