「あたし彼女」の可能性と限界

はたして、これは未来に残っていくだろうか?

話題の「あたし彼女」を読んで考えた。もちろん、未来のことは分からない。だからそれは、「ぼくはこれを未来に残したいか?」という自問の意味合いが強い。或いは、これまでに見聞きしてきた「古き良きもの」の、漠とした記憶が導く予断か。音楽でも映画でも文芸でも何でも、「作品」と呼ばれるものを前にしたとき、この問いはぼくにとって重い。それは「娯楽作品だから」とかいうような偏見とは無縁である。浜崎あゆみや倖田來未の流行をぼくはクダラナイものだったとは思わない。ただ、彼女たちの歌はその場限りで消費されていくための作品だったと思っている。

だからぼくは、彼女たちの音楽について、ひとつひとつの作品としてはあまり興味を持てなかったし、一曲一曲を独立した作品として評価はできないな、とも思っていた。要するに、あれは「あゆ」という現象に対する共感であり、「くぅちゃん」という現象に対する共感だったんだろうな、と解釈している。それと同じような感触を、ぼくは昨日読んだ「あたし彼女」にも感じた。しかもそれは「あゆ」や「くぅちゃん」以上に個別性の希薄な、極めて刹那的な共感なのではないか。

「あゆ」や「くぅちゃん」は、「あたしたちの気持ちがわかる有名人」だった。共感可能な「才能」だった。けれども「あたし彼女」への共感は、おそらく「kiki」という「才能ある代弁者」への共感ではない。ケータイという心理的に極めてパーソナルなメディアを通じて伝わってくる「あたしたちと同じ女の子の誰か」に対する共感である。であれば、その文章に才能や憧れなんて要素は不要である。むしろ、邪魔といっていい。普段、友だちから送られてくるメールや、mixi日記の延長上にあることこそが重要なのである。選者のいう「リアル」も、そういったものだろうと思う。

だから、そこに最も必要なのは、誰でも読み通せる、平易で端的で没個性的な読みやすさである。これを追求すると、たぶん、誰が書いてもあれに近い文章になる。漢字の表記やよく使う単語など、文献学的な意味での「クセ」が出るくらいだろう。それは、ケータイ慣れした女の子たちのメールの文面が似てくるのと同じである。泣ける物語の雛型はいくらでも転がっている。試してみる根性はないけれど、あれの亜流ならそう苦労せずに書けると思う。本家を上回ることは難しいだろうけれど、下回ることもたぶん難しい。それくらいに、すでにして確立された言語表現だと思う。

そんな、誰もが小説たり得るなどと認識していなかった言語表現を駆使して小説を書いた。それこそ、まるでメールでも書くように。kikiの手柄はそこにある。それはたとえば、マルセル・デュシャンが便器を『泉』にしてしまったように。その意味で、ぼくはあの表現は確かに発明だったといっていいと思う。それも、限りなく必然に近い形で生みだされた発明である。そして、それは刹那的な共感とカタルシスに奉仕するための発明品である。だから、1個の作品として「あたし彼女」が未来に残っていくことを、ぼくは想像できない。残るとすれば、その表現手法だけだろう。

ただし、「あたし彼女」が示した可能性は、すでにそこが限界かもしれないと、ぼくは思う。

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